ブックタイトル広報つちうら 2015年5月上旬号 No.1146

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広報つちうら 2015年5月上旬号 No.1146

11広報つちうら2015.5.1今回の未来への伝承は、中世につくられた謎の穴「地ちかしきこう下式坑」を紹介します。ごく稀に起こることですが、台地上の畑を工作中に急に地面が陥没してトラクターがその穴にはまったり、何の伝承も無い土地に急に穴が開いたりすることがあります。これらの話のほとんどは周囲に何も無い平坦な台地の上で起こることから、地下式坑の天井部が陥没した可能性があります。地下式坑の構造は、入口となる竪たてこう坑と地下室にあたる主しゅしつ室の二つからなります。竪坑は地面から深さ約1メートル程度にほぼ垂直に掘り込まれた穴です。主室は方形、円形、楕円形などさまざまですが、竪坑よりもさらに底面が下がります。幅や奥行は1メートル以上4メートル以下と、その長さはさまざまです。柱や板で天井を支える工夫などは行わず、素掘りのまま用いていました。国内の地下式坑の分布をみると、関東地方に集中しており、中部以西ではほとんど見られません。特に千葉県が全国で最も多く、ついで茨城県が続きます。千葉県でも北部、茨城県でも南部に分布の偏りが指摘されています。平成19年段階の研究成果ですが、茨城県内では県北・県央で14遺跡131基、鹿行地域で10遺跡16基、県西地区で9遺跡74基、県南で26遺跡186基発見されています。県南に多いのは中世当時の地域差よりも、現代の開発事業数に比例するものと考えられます。1遺跡で1基発見される場合もあれば、20基以上発見される場合もあり、遺跡ごとの性格の違い123中世のなぞの穴地下式坑を反映するようです。地形の点からは、台地上がほとんどで、特に台地の中央部分よりも縁辺部分が多いようです。川沿いの低地から見つかる例はほとんどありません。これは、低地の場合、地下水や堆積物の性質から、単なる素掘りで地下室を作るのに土地が適していないからと考えられます。出土遺物は、中世土器のかわらけ・土鍋のほか、常滑や瀬戸などの陶磁器、銭などが中心です。木製品などの有機物は、台地の土は酸性が強いため残りにくいようです。これらの年代から地下式坑のピークは室町時代から江戸時代の初めころと推定されています。遺物は、主室の床面に残す・置くような出方をするものはほとんど無く、竪坑から流れ込んだ埋め土の中から見つかる場合が大部分を占めます。また断面を見ると、天井部分が崩れ落ちて、穴になった状態を利用して、後に遺物を捨てた場合も見られます。土浦市小岩田東の神出遺跡では、29基の地下式坑が発見されました。17号坑からは主室に流れ込むように大量のヤマトシジミとオオタニシが出土しました。共に出土したかわらけの年代から、15世紀ころのものと見られます。また下高津小学校遺跡からは、3基の地下式坑が発見され、土鍋やかわらけのほか、天目茶碗などの茶道具や硯も見つかっています。識字層で茶の湯に接する社会的に上位の人々がいた可能性があります。陶磁器から16世紀のものと判断できます。この地下式坑に対しては、造られた目的に2つ説11広報つちうら2015.5.1があります。一つは、人間の葬送・埋葬に用いたとするもので、もう一つは倉庫とする考え方です。前者の場合、不整形の溝に囲まれ、五輪塔などの石塔が出土します。台地上は酸性の土壌のため、骨は残りにくいと考えられます。後者は、城館遺跡の中で建物と重ならず、規則的に配列して発見されることから隣り合った倉庫があったと推定されています。結論的には、どちらも的を射た指摘と思われます。中世の人々は、その必要に応じて地下に穴を掘り、利用していたことを示すあり方なのでしょう。今回ご紹介した下高津小学校遺跡の出土資料は、5月10日まで上高津貝塚で開催中のテーマ展で展示中です。ぜひご覧になってください。問上高津貝塚ふるさと歴史の広場(?826・7111)下高津小学校遺跡地下式坑の断面(16世紀のもの)