ブックタイトル広報 常陸大宮 2015年4月号 No.127

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概要

広報 常陸大宮 2015年4月号 No.127

?????????? ????『大岩「竹内橋」の由来』◇大岩に開通した農道の橋その名は「竹内橋」昨年、緒川地域大岩地区と御前山―栃木県那須烏山市をつなぐ県道12号線の南側に、農道大岩線が開通しました。この農道には小舟川に架かる橋があり、地元からの提案で「竹内橋」と名付けられました。執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執▲農道大岩線の小舟川に架かる竹内橋次衛門(下檜沢)や関沢源次衛門(野口)とも親交が深く、比較的史料が残っています。◇大岩村の名主で水戸藩公許の紙問屋「竹内家」茂喬の墓碑銘は師の立原翠軒によるもので、「酒を地名にちなんだ名を持つ橋が多い中、この橋は、大飲んでは大言壮語し、藩からお叱りを受けることがし岩の名家「竹内家」に由来して名付けられたものです。執ばしばあった。しかし学問を好み、書を善くした彼を大岩の竹内家から太田(現常陸太田市)に分家した執多くの人が慕い、身は民間にありながら志は武士たち執竹内家の当主権兵衛よりの、先祖についての問い合執よりも高かった」と讃えています。4つ年下の翠軒は、ごうほうらいらくせに答えた手紙(文化6年1809年)によれば、「竹内執竹内家に宿泊もしており、豪放磊落であったと想像さ執家はその昔、武蔵国川越18万石の城主であったが、足執れる茂喬の人柄を愛していたようです。彼の書と思わ執利尊氏によって亡ぼされた。そして忠臣30人余りを連れる三輪神社の石碑の悠然とした文字も、その人物を執ほうふつれて、佐竹氏が治める太田に住んでいた縁者を頼って執彷彿とさせます。執身を寄せ、その後、佐竹領内の大岩村に移って農民と農道の小さな橋に付けられた名前に、広がりのある執なった。それから我らまで、15、6代にもなる…」と執地域の歴史が込められているのです。執あります。執執大岩の竹内氏は、佐竹氏の秋田移封に随行せず、水執戸徳川家のもとで大岩村の名主となりました。水戸藩執執第一の産物であった紙(西ノ内紙に代表される手漉き執和紙)を扱うことが許された在郷問屋の中で、最も古執執い3軒の内の1軒として栄え、藩内の紙産業の盛衰に執ほんろう執翻弄されつつも、幕末には領内の名家として郷士に列執せられます。600年も昔から大岩を治めていたと伝え執いけい執る竹内家を、かつて近在の人々は、畏敬の念を込めて執滑大岩三輪神社にある「竹内様」と呼んでいました。執石碑裏面執ちなみに太田の竹内家は代々権兵衛を名乗り、明治から昭和初年に活躍した権兵衛は、茨城交通や日立電鉄を創業した有名な実業家です。たけうちげんすけみなもとのしげたか◇豪快(涯)な人物だった竹内源介源茂喬第54回ふるさと見て歩き「大岩の三輪神社」で、神社と歴代水戸藩主の関わりを漢文で記した石碑が境内にあることを紹介しました。この碑の文章を草し、書いた人物は、裏面に願主の筆頭として名のある「当村農長竹内源介源茂喬」と考えられます。江戸時代中頃の竹内家当主です。碑文には、2代藩主光圀が2年続けて大岩を訪れ、くにがみやまとのくにみわみょうじん国神神社と称していた神社の祭神が、大和国三輪明神おおものぬしのかみの大物主神であることを村人に教え、“助さん”ことさっさそうじゅん佐々宗諄に命じて、大和三輪山の杉の苗木を神社境内に植えさせたこと、その後、寛延3年(1750年)に社殿を現在の街道沿いに移築し、寛政3年(1791年)には社殿の修繕をしたことが記されていて、裏には、大はるもり旦那として6代藩主治保の名が大書されています。こういった村の鎮守社の造営に藩主が関わることは、きわめて珍しいことです。ゆうおう茂喬(1740~1802)は学問を好み、書を宥応(真言だいごうりゅうほう宗僧侶)、漢詩を大剛隆豊(茂木の人曹洞宗僧侶)、たちはらすいけん儒学を立原翠軒(水戸藩の学者彰考館総裁)に学びこむろとうました。同じように紙問屋で好学の士である、小室藤じえもんせきざわげんじえもん執〈参考資料〉執秋山高志『在郷之文人達近代之予兆』2011那珂書房執執歴史民俗資料館大宮館緯52-1450広報常陸大宮21平成27年4月号