ブックタイトル広報 稲敷 2015年4月号 No.121

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概要

広報 稲敷 2015年4月号 No.121

広報稲敷平成27年4月号30ふるさと探訪第103号桜川地区の養蚕の歴史●市郷土資料調査委員・鴻野伸夫昨年、富岡製糸場を含む絹産業施設が世界遺産に登録され、日本の近代化を支えた生糸産業、養蚕業が注目されております。近年、不耕作農地の増加が問題になっておりますが、特に目につくのが桑畑です。私の家の近くにも伸び放題の桑の木がジャングルのようになっています。一時代を支えた養蚕が途絶えて約一五年、この地域の養蚕業を振り返ってみたいと思います。浮島に残る昭和初期の養蚕農家の写真や、オビシャの記録(大正時代)からも古くから養蚕が営まれていたことが窺えます。わが国における養蚕の歴史は古く、古代律令国家の時代にさかのぼり、絹織物の需要の高まりで、京都に近い山陰や、北陸地方を中心に盛んになりました。この地方でも平安時代(一一五〇年頃)に、信太荘から荘園年貢として京都の領主へ絹織物三〇〇疋ひきが収められたという記録があります。地名にも鬼き怒ぬ(絹)川、小こかい貝(蚕飼)川や養蚕、桑山など多く見られます。また県内には、つくば市にある蚕こかげ影神社(創建五四〇年ごろ)ほか養蚕古渡中学校敷地に稚蚕飼育所を建設し、昭和四八年には組合員数一八七名、稚蚕数量も二八〇〇箱(一箱二万粒)を数えるまでに増加しました。稚蚕飼育所はその名の通り、毛蚕を育てる施設で、孵化から二齢までを育て、そのあと農家で五齢まで飼育し、上じょうぞく簇(上がり)、繭収穫となります。養蚕業だった友人によると、一回の繭が出来るまでには、掃はき立たてから約三〇日を要し、一回に約五~一〇万匹(頭)の蚕が所狭しと蚕小屋や座敷、土間の蚕棚に飼われ、春はる蚕ごから夏、秋、晩秋、晩々、初冬蚕まで多い農家で六回、平均三回ほど出荷したそうです。一回の出荷量は約二〇〇キロ、昭和三〇年~四八年ごろの価格は平均二二〇〇円(一キロ)で、稲作のほかの現金収入としてはかなり大きかったと思われます。特に浮島では、種繭として飼育生産する農家もあり、一般糸繭よりは条件が良かったそうです。統計によると最盛時、昭和四八年の旧桜川村における出荷量はの神社が四社祀られており、奈良平安時代にはすでに広まっていたことがわかります。生糸の生産が国策として奨励され、明治から昭和にかけて、養蚕が稲作と並ぶ基幹産業となり、旧桜川村でもほとんどの農家で盛んにおこなわれるようになりました。養蚕とは蚕に桑の葉を与え成長させて、生糸の元となる繭まゆを生産することです。このあたりでも養蚕業の経験のある人は少なくなり、お蚕こさまという呼び名も知らない世代が多くなったと思います。蚕とは蛾の幼虫で、孵ふ化かした時は毛け蚕ご(蚕の赤ちゃん)と呼ばれ二ミリくらいですが、桑の葉を餌に成長し、脱皮を繰り返し七センチくらいまで成長し、繭を作り、その中で蛹さなぎになりまた羽化、産卵するという循環で種を保存します。その循環を利用して繭を生産、出荷して収入を得る仕事が養蚕業です。太平洋戦争後、生糸の需要の増加に伴い、昭和四〇年代になると生産力の増強と省力化を図るため、昭和四三年、桜川養蚕農業協同組合が設立されました。旧四六六四九キロと記されております。母の実家でも養蚕を行っていたので、蚕棚の下で寝たこともあり、繭を作る直前(五齢)の蚕が桑の葉を食べる音、上簇の日の忙しさ、回転まぶしの音など振り返ると夢のようです。しかし、葉タバコ栽培との競合もあり、社会情勢の変遷により、かつては旧桜川村に二〇〇戸以上あった養蚕業も次第に衰退し、平成四年春、飼育所は閉鎖されました。そして平成一〇年、古渡の一軒を最後に養蚕の灯が消えました。機会がありましたら古渡水の里公園(古渡小南側)に「桜川養蚕農業協同組合記念碑」を訪ねてみてはいかがでしょうか。参考資料常陽芸文「茨城の養蚕いまむかし」浮島中郷地区オビシャ記録蚕影神社資料『茨城の蚕糸業統計昭和四九年』●歴史民俗資料館?0299?79?3211△稚蚕飼育所△記念碑