ブックタイトル茨城県近代美術館/美術館だより No.100
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茨城県近代美術館/美術館だより No.100
『美術館だより』100号に記す3人の館長の思い出この『美術館だより』も、本号で100号を数えるという。開館当初からのメンバーももう残り少ない現状だから、その一人である私がここで歴代館長の思い出話をするのも意義のないことではないと思い、少しばかり記してみたいと思う。まずは、初代館長、匠秀夫氏は、神奈川県立近代美術館長を経て、当館の立ち上げを担って茨城の地に迎えられた。この館長の下で、開館展の「モネとその仲間たち」(13万人)を成功させ、その後、「イタリア絵画展」(3周年)、「エルミタージュ美術館展」(4回シリーズ)を初めとした海外展、個展でも、マルケ、モディリアーニ、ロダン等の外国作家、黒田清輝、高村光太郎、横山大観、平山郁夫等、日本人もビッグネームのオンパレードといったところの企画展を次々に実現させていった。本誌2号、10号に寄せられた館長言にも、衣食が足りた後の文化施設として、大都市にも負けない大規模展を地方でも開催してゆくのだという意気込みが感じられる。個人的な思い出を少し記すならば、初めての海外出張であったロシアのサンクトペテルブルグで、エルミタージュ美術館との出品交渉に館長のカバン持ちとしてついて行ったときのことだが、明日帰るという日に私用で大きな失態を演じてしまい、大迷惑をかけてしまうことになる。しかし帰りの飛行機の中で、館長はそのことを少しも叱らず、代わりに「君は、『罪と罰』を読んだかね?」と聞かれた。「いいえ」と答えた私に対して一言「君は勉強してないね。」としみじみ言われた言葉が今でも耳の奥にこびりついている。帰国後さっそく件のドストエフスキーの小説を読んでみれば、確かに、ペテルブルグの街自体が主人公のようなこの物語の展開に、もし、先に読んでいれば、馬鹿なことをしでかした部下に対して、美術と同様文学も愛したこの館長にもっと実のある話をしてもらえたのではないかと、いまだに後悔の念が拭い去れずにいる。現役で永眠された初代館長に替わって、2代目の加藤貞雄氏は平成7年に正式に館長に就任した。目黒区美術館を立ち上げたあと、同館を軌道に乗せてから茨城に移ることになったのだが、もともとは、毎日新聞社の美術記者を長く務めた経歴を持つ人物だった。初代館長時代は、ほとんどの企画を館長がどんどん決めていったものだが、加藤氏は、企画のアイデアは学芸のみんなで決めてゆきなさいという姿勢をまず示された。そして就任から2年目の本誌29号には、新館長の思いを語った「美術館はいかに機能すべきか」という一文が寄せられたが、ただ、いい展覧会をやって、人を集めるだけでは美術館として充分ではなく、そこにはしかるべき「理念」が必要なこと、そしてその「理念」を形作ってゆくのは、学術的、専門的調査をする実践者としての学芸員が重要なのだということが述べられていて、これは先に書いた館運営の姿勢を外部に対して宣言したような文章とも受けとれた。この姿勢は最後まで貫かれたと思うし、私たちの主体的活動とその責任の重さに対する認識は、まさにこの館長によって鍛えられてきたのではないかと今では感じている。そして、この館長の下でも、10周年記念の「ミレーとバルビゾンの作家たち」展(10万人)や個展としては破格の8万人を数えた「東山魁夷展」などが開催された。加藤氏についていえば、たとえば、パリの地で名を成した荻須高徳の個展のおり、生前から面識のあったこの画家の芸術の本質を捉えて、「荻須は、絵を学びにパリに行ったんじゃなくて、パリを描きに行ったんだよ。」と語ったその瞬間の姿が、独特のダンディズムとともに今でも目に浮かぶのである。加藤氏は、3番目の市川政憲氏に館長のバトンを渡したのちも、美術資料審査委員として当館に関わってもらっていたが、体調を崩されてその任を退かれた。そして、昨年3月に永眠されたという知らせが届いた。いたし方のないこととは言え、大変さみしいことである。市川氏が館長に就任されたとき、私は五浦美術館に異動になっていたが、企画課長になって水戸に復帰してから5年間この館長に仕えたことになる。しかしまだ記憶が生々しくてどうしても語りづらいので、書くことはほんの少しだけにとどめたい。この館長も学芸員の自主性を重んじる点では、加藤氏と同じではあったが、自身の意見もトコトンまで話され、また担当以外のスタッフの意見も聞くよう指示されて、幾度となく話し合いがもたれることとなった。それでも、なかなか館長の納得は得られなくて、ものごとを決定するのにいつもぎりぎりになってしまうのであった。しかも、市川氏の意見は、かなり次元の高い視点から示されるものだから、それを理解するのにかなりの時間を要することも多かった。しかし、何らかのきっかけでそれが分かり始めると、「なるほど」と合点がいくということを繰り返した気がする。積極的に自身のアイデアによる展覧会も推進され、「眼をとじて」展や、震災後の美術館復興に努めたあとの「二年後。自然と芸術、そしてレクイエム」展は、時代を越えて美術が人間に語るものを示すような内容であり、さらには私たち学芸員にも模範となるような展覧会だった。さて、昨年4月、市川前館長から尾﨑正明現館長へと再びバトンが渡された。新館長がこの美術館とどのような縁を結んでゆくかは、きっとこれからのことであろう。そして新たな歴史はこの館長の下で作られてゆくことになる。[近代美術館副参事兼美術課長小泉淳一]4