ブックタイトル広報なか 2015年2月号 No.121
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広報なか 2015年2月号 No.121
広報なか2月号7問い合わせ?297-0080◆水郡線全通根本正・宮本逸三らは、私設水戸鉄道の国有化に奔走していた。その結果、昭和2年(1927)月国12有化が実現され再び「水郡線」と呼ばれるに至った。宮本逸三の実家には石丸次官の色紙「一心協力」が保存されている。水郡線敷設に奔走・奮闘した宮本逸三に対する石丸次官の感謝の証しであろう。国有化以後、大子駅以北は直ちに建設にかかり、まず笹川(現安積永盛)・谷田川間が昭和4年(1929)5月に「水郡北線」として開業した。同時に、水戸・常陸大子間は「水郡南線」となった。南北両方から進められた工事は昭和9年(1934)月4日に磐城棚倉・川12東間が開通して全通、南線・北線を統合して再び「水郡線」に戻った。石丸次官の色紙(宮本雅二氏所蔵)全通開通記念の郡山駅スタンプ12月4日の日付がある(仲田義一氏提供)◆ガソリンカーの導入と無人駅設置この昭和9年(1934)5月、そのころ鉄道に平行するように進出してきたバスに対応するため、簡便◆貨物取扱の廃止水郡線は、福島県との人的交流や八溝山系の鉱産・林産資源および沿線の農産物運送も大きな使命であった。しかし、昭和年代後半からの30な停車・出発運転を目指して水戸-常陸太田-常陸大宮間にガソリンカーが導入された。その専用駅として後台・中菅谷・南酒出・常陸中里・常陸村田の各無人駅が設けられた。しかし、戦時下の液体燃料の使用規制によりガソリンカーは廃止されることになり、新設された各駅は昭和年(118943)に廃止された。その後、昭和年(1951)か26らは太田線に、翌年に水戸・常陸27大子間に気動車(ディーゼルカー)が運転され、昭和年(1953)28に常陸津田・後台・南酒出が、翌29年に中菅谷が無人駅として再開された。現在の後台駅沿線を走る気動車高度経済成長によりトラック輸送、自家用自動車の出現により国鉄経営も苦境に立たされるに至った。昭和年(1955)月、通勤・通学3012時間を除いて水郡線の全面気動車化が実施され、同年(1960)に35は常陸青柳・河合、同年には下菅37谷・常陸鴻巣・静・額田などの各駅が貨物取扱を廃止し、大きな使命の一つであった貨物輸送は終わりを遂げた。◆幻の水郡線延長(上菅谷・勝田間)水郡線の延長線と考えられていた上菅谷・勝田線は水戸・菅谷・常陸大宮間の水戸鉄道が国有化されたことから力点が削がれることになった。湊鉄道の営業も大きな実績を挙げられない状況にあった。昭和年14(1939)には日立製作所の勝田進出も明らかになり、同年(194161)春には勝田町と水郡線沿線の各町村によって「上菅谷勝田間鉄道期成同盟会」が結成されて敷設推進が期待された。さらに期成同盟会は、翌年(117942)には?中?井?川?なかいがわ?浩?代議士ひろしを中心に即時猛運動を開始することを確認して推進運動を進めた。しかし、結局は実現しなかった。戦時経済に鉄道新設の余裕が無く、地方の一支線鉄道の延長などは緊急性を要しないとみられた。地元側も戦時色に覆われて、鉄道新設運動に力を入れるような状況ではなくなったことなどが原因と考えられる。旧上菅谷駅4水郡線の展水郡線の展望昭和年(1987)4月から国62鉄が解体されて分割民営化が実現した。現在、水郡線は通勤・通学の手段として利用されることが主となっている。人口減少もあってその利用客も減少している。時にイベントが企画されているが、利用客増加には結びついていない。しかし、環境保護、大量輸送のためにも鉄道は貴重な存在である。物流センターの設置と沿線の観光資源の開発から、自動車・バス会社との組み合わせなどで鉄道振興の復活は期待出来ないであろうか。昨年竣工した現上菅谷駅※列車・駅舎など明示以外の写真は『写真記録世記の茨城』より20