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概要

広報なか 2015年2月号 No.121

広報なか2月号5問い合わせ?297-0080◆常磐線一方、そのころ県北の常磐炭鉱の開発が進み、石炭を東京方面に運送する鉄道が計画されていた。その計画は明治年(1894)月に認2711可され、翌年に内原駅と宍戸駅の28間に友部駅が敷設され友部・土浦間の工事が着手され土浦線と称された。明治年(1896)月、水2912戸・田端間が開通し、水戸以北の路線工事も順調に進行し、明治年30(1897)2月に水戸・平間が、翌年8月には水戸・岩沼間が全通した31。路線は鉄道国有法が施行され、常磐線と呼ばれるようになった。◆湊鉄道明治期、?三?浜?地方と呼ばれた平さんぴん磯・湊・磯浜地方は海産物の水揚げや煙草製造業の隆盛を迎えていた。この豊富な物資を発達しつつあった鉄道により、水戸・東京方面へ運送するために鉄道敷設の計画がなされていた。磯浜・湊線、武田・平磯線などがそれであるが実現は容易ではなかった。その後、明治年(194007)月に湊鉄道株式会社が設立11され、湊(旧那珂湊)・武田(旧勝田市)間の鉄道敷設が実現することになった。大正2年(1913)12月に湊・勝田間の敷設工事が竣工し、25日に開通式が行われた。洋風木造建築の明治末期の水戸駅開通式当日の那珂湊駅◆太田鉄道から水戸鉄道へ明治年(1892)7月、太田25馬車鉄道が水戸・太田間の特許を受けたが、翌年8月に蒸気軽便鉄道26(太田鉄道)に計画変更し、創業総会を開き社長に?佐?藤?信?熙?(常陸太田市さとうのぶひろ小里)を選び本社を太田に置いた。明治年(1895)月、水戸停2812車場での日本鉄道線との連絡に不便をきたし、時勢にも適合しないとの理由で普通鉄道に変更することにし、翌年その計画は認可された。29鴻巣村(那珂市)の?宮?本?逸?三?は、鉄みやもといつぞう道が今後の地域発展に大きな効果のあることを見通して、この太田鉄道の発起人の一人となり発足・運営に協力・尽力した。しかし、太田鉄道は株金の払い込みができず、株主間の紛争が起こった。明治年(183198)月、太田鉄道は久慈川架橋11が未完成のまま水戸・久慈川間を開業させ、翌年4月になってようや32く水戸・太田間全線の開通を見るに至った。しかし、営業不振は続いた。未だ鉄道の利便性が地域に理解されるに至っていなかったことが大きかったと思われる。このため、明治年(1901)には水戸鉄道に34譲渡されることになった。こうして水戸・太田間の鉄道は、太田鉄道から水戸鉄道に引き継がれた。水戸鉄道は、既設の鉄道を安く買い入れたのに加え、旅客・貨物の利用が大幅に上回るようになり、営業は順調に伸びていった。明治年40(1907)に役員が入れ替わり、以後この水戸鉄道は安田財閥系の鉄道会社となった。宮本逸三(宮本雅二氏所蔵)3水郡鉄道の計水郡鉄道の計画◆?白?萩?線構想しらはぎ明治年(1903)、福島県南郷36地方に鉄道敷設の動きが始まった。福島県の交通網整備として海側(常磐線)と内陸部(東北線)との横断線敷設計画である。福島県東白川郡笹原村の村会議員?白?石?禎?美?は「白萩しらいしていみ線」(白河・高萩線)を計画して単身実地調査をした。その後、福島県出身で北海道選出代議士である伯父白石?義?郎?を通して、政府が鉄道院へ計よしろう画提出した「?平?郡?線」(平・郡山線)へいぐんの比較線として白萩線の実地調査をすることを請願した。義郎は、土地の豪農で呉服商を兼ねていて、明治年(1898)歳で代議士に当3138選している。この年に議会は解散となり、義郎は?杉?田?定?一?が北海道庁長すぎたていいちの時に推されて初代の釧路支庁長となり、歳の時に北海道から出馬し43て当選、代議士となって北海道か15年計画に尽力し、鉄道敷設のためにも大いに骨を折った。やがて鉄道院が実地調査を行った結果、明治年43(1910)政府は「平郡線」敷設を決定した。(『根本正伝』より)白石禎美白石義郎