ブックタイトル広報つちうら 2015年1月上旬号 No.1138

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概要

広報つちうら 2015年1月上旬号 No.1138

おり、昭和47年に茨城県住宅供給公社は烏山団地造成に先立ち、烏山遺跡の事前調査を国士舘大学教授大川清先生に委託しました。大川先生は7月、8月という炎天下の中、精密な調査によって200棟を超える古墳時代から奈良・平安時代の住居跡を発見しました。その中には、古墳時代の玉作工房跡や関係資料を出土する住居跡が19棟も含まれており、烏山遺跡が関東地方最大の古代玉作遺跡であることが判明しました。特に研究史上注目されたのは次の2点であります。1操業時期が4世紀中葉から5世紀前半と推定され、それ以降に継続しないこと。2『常陸国風土記』に記載された久慈郡玉川産の赤あかめのう瑪瑙を原料とし勾まがたま玉を生産していること。その後の研究で、この遺跡では材料として瑪めのう瑙の他に碧へきぎょく玉・滑かっせき石・粘ねんばんがん板岩などが使用され、勾玉のほかに管くだたま玉・平ひらたま玉なども生産され、玉作の未成品や剥はくへん片など1000点を超える資料が確認されました。さらに玉作工具として砥といし石や敲たたきいし石なども知られ、勾玉の腹部を研磨する内うちみがき磨砥石は特徴的な形態を有しています。瑪瑙製の勾玉工房としては我が国最古の遺跡です。さらに市内にはこのほか、おおつ野の八はちまんわき幡脇遺跡、木田余の浅せんげんづかにし間塚西遺跡からも玉作遺物が発見されています。このことは土浦が古代玉作において中心的な役割を担っていたといえます。こうした玉作遺跡からは完成品は発見されず、全て未成品と剥片などです。完成品はヤマト政権の元に上納され、全国に配布されたものと想定されます。しかし、このような玉作技術はこの地に継承されず、6世紀には消滅して全く見られなくなりますが、遠く離れた出雲の玉作技術に散見するようです。私は密かに、古代土浦の玉作技術が出雲玉作に伝播したのではないかと期待しています。これを正夢にするよう本気で勉強しようと思います。乞うご期待を…。調査中の烏山遺跡(昭和47年10月森昭氏撮影)▲瑪めのう瑙の勾まがたまみせいひん玉未成品5広報つちうら2015.1.1