ブックタイトル広報 常陸大宮 2014年12月号 No.123
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広報 常陸大宮 2014年12月号 No.123
?????????? ????「北富田小に来たマッカーサー!?」◇資料館に届いた問い合せのメール今年4月、資料館にこんなメールが届きました。もろとの「母(79歳)が旧山方町(当時は諸富野村)の北富田小学校に通っていた頃、マッカーサー元帥が小学校に来たと言うのですが本当ですか?大きなパイプをくわえ、背が高かったそうです。」当時の北富田小学校で何があったのでしょう?地元にお住まいの堀江文雄さんにお尋ねしました。▲北富田小学校跡地◇進駐軍の小学校訪問堀江さんによると、北富田小学校にやって来たのは、GHQ茨城軍政司令官リンボー少佐でした。もちろんマッカーサー元帥ではありません。堀江さんが大子の農林学校を卒業し、北富田小学校で代用教員となった数カ月後、終戦翌年のことだったそうです。少佐は近くまで通訳らとともにジープで来て、長く狭い坂を上り、息を切らして校門に着くと、深呼吸しちょうかて息を整えてから、通訳を従え長靴を鳴らして職員室に入りました。勲章のついたカーキ色の軍服に帽子をかぶり、葉巻をくわえていたそうです。初めてアメリカの軍人を見た小さな子どもたちが、不鮮明な新聞の写真で見たマッカーサー元帥と、少佐の姿を重ねてしまったのは無理もありません。彼らの来校については、3日ほど前に連絡があって分かっていたそうですが、先生方はさぞや緊張したことでしょう。きしょう農林学校の徽章のついた堀江さんの帽子を、兵士のものと思った少佐に、片言の英語で学帽であることを説明したことから会話がほぐれ、中を確認するため机の引出しを開けてほしいとか、学校に軍人勅諭等が保管されていないかなどを質問して、保管されている図書や資料の焼却を指示し、3つの教室を回って、10分ほどで学校を後にしたそうです。その態度は威圧的なものではなく、紳士的でさえあったといいます。執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執◇失われた地域の教育資料本当にリンボー司令官は、県北の不便な小学校に自ら出向いたのでしょうか?「町場の学校よりも、僻地の小さな学校にこそ軍国主義的な資料が残されやすいし、また物見遊山的な気分もあったのではないか」というのが堀江さんの見方です。その後すぐに、北富田小学校に保管されていた図書や貴重な教育資料、児童が作ってきた明治時代からの壁新聞をとじたものまで、日清・日露戦争のことが書かれた部分があったために、すべて焼却処分されました。その中には、堀江さんのお母さんが書いた壁新聞もあり、残したいと校長に希望しましたが許されなかったそうです。厚い本は燃えにくく、すべてを灰にするのに三日三晩かかったとのことです。茨城県は、水戸学を中心とした国家主義的思想が根強いとして、鹿児島県とならぶ軍国主義、国粋主義の地域とみなされ、GHQから戦前・戦中の教育資料のふっしょく払拭を厳しく指令されました。進駐軍兵士が直接学校を訪問し指導したのも、その表れです。県内の教育関係者は、進駐軍の監視を恐れるあまり、選別することなく資料を焼却したため、県内には教育資料が残らず、教育史のみならず地方文化を知るうえで大きな損失となりました。◇それぞれの学校にそれぞれの歴史去る10月19日、市文化センターで、市民の企画・運営による「ウダーベ音楽祭」が行われ、市民約800人が参加し、統廃合になった学校を含む市内38小学校の校歌が熱唱されました。学校には学校の数だけ、それぞれの歴史や人々の思いがあります。今回、北富田小学校はウダーベ音楽祭に不参加でしたが、他にも明治時代からの歴史をたどれば、統廃合になった小学校や分教場は数多くあります。それらの学校の歴史や記憶が失われる前に、記録にとどめる必要がある、と強く感じた問い合せでした。少佐も登った北富田小への道葛(小学校は山の上)歴史民俗資料館大宮館緯52-1450広報常陸大宮17平成26年12月号