ブックタイトル広報 稲敷 2014年12月号 No.117

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概要

広報 稲敷 2014年12月号 No.117

広報稲敷平成26年12月号30ふるさと探訪第99号須賀津の弁天様(先人の残した記録)●市郷土資料調査委員・山本裕子須賀津の弁天堂では、例年一〇月一一日に弁天祭が執り行われ人々でにぎわいを見せています。祭礼は今日に至るまで途絶えることなく受け継がれ、地区の人々によって大切に守られています。須賀津という地域は霞ヶ浦の南岸に位置し、古くは南東部が霞ヶ浦の入江に面していましたが、大正中期に干拓事業が開始され、昭和七年に完成(甘田入干拓)、同三五年には、須賀津・浮島間も干拓が行われ(西の州干拓)湖面は現在にみられる耕地となりました。干拓が行われ周辺が耕地となる以前、この弁天堂は湖の中に存在していました。その頃は船で行き来をしていたそうです。大黒天像が置かれ、それらの前に十五童子像が安置されています。各像ともに像高があり、保存状態も良く像容にすぐれ、整然と立ち並ぶ一群はとても見応えがあり、このような状況から、仏像についても祭礼とともに大切に受け継がれてきたことがとてもよく伝わってきます。そのことは、平成九年におこなわれた弁才天像の解体修理からもうかがうことができます。解体修理とは、像の傷みが激しく、材のつなぎ目が緩んできたり、劣化が著しい時に、一旦、材をばらしてから修理を施し、再びつなぎ合わせて、元通りの像に戻すものです。更に弁天堂内の一群の像は、修理の際に全ての像の表面に新しい彩色が施されています。この解体修理の時に、弁才天像の像内から墨書が確認されました。その銘文は以下の通りです。「享保八年/卯七月日/大佛師/宮川刑弁才天は元来インドでは河の神様であったため、日本においても水に縁のある場所に安置されることが多く、有名な江ノ島や琵琶湖・竹生島の弁才天があげられます。須賀津でも本来の弁才天に対する信仰は、弁天堂が置かれていた場所から、水と関わりの深い信仰であったであろうことが推測できます。しかしいつの時からか、お産、安産の信仰と結びついたようで、現在においては、安産祈願が盛んになっています。弁天堂の内部には、弁才天像を中心に向かって右奥に毘沙門天像、左奥には盗難に遭い紛失したため替わりに現代作のこのような修理の時でない限り滅多に目にすることはできません。修理が完了した時にも、像は元の状態に戻るので、今は確認することが不可能です。これらの銘文を現在において確認することができたのは、平成九年の修理時に、須賀津の故根藤隼人元郷土資料調査委員が、写真に収めていたからなのです。また根藤氏は修理をする前の仏像の姿も写真に記録していました。この写真をもとに、元の仏像の容姿や仏師について調べることができ、仏師は千葉県の幾つかの寺院で造像している専門の仏師であることがわかりました。須賀津の弁才天像は、整った像容で、それを確実にすることができる宮川刑部という専門仏師による造像、この仏師の他の作や更には江戸時代の像と比較したときの像の大きさも含め、安置する須賀津地区という一地域のこの時代の豊かさを物語っているかのようです。これからも地域の人々に大切に受け継がれていくことを故根藤委員も願っていることと思います。※弁天堂が湖の中に位置していた時の様子や安産祈願については、『稲敷市立歴史民俗資料館館報』第5号内の根藤氏の執筆によるもの●歴史民俗資料館?0299?79?3211△1弁天堂内△2弁才天像(修理前)部作之」「嘉永三戌八月吉日/奉再光大辨才天/同州同郡阿波村/大佛師鈴木秀興/俗名木村右馬之□」この銘文により、江戸時代の享保八年(一七二三)、大仏師宮川刑部によって造像され、嘉永三年(一八五〇)阿波村大仏師鈴木秀興が修理したことが判明しました。像の内部に書かれている銘文等は、△3弁才天像内(写真2、3は平成9年根藤氏撮影)