ブックタイトル広報つちうら 2014年10月上旬号 No.1132

ページ
15/16

このページは 広報つちうら 2014年10月上旬号 No.1132 の電子ブックに掲載されている15ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

広報つちうら 2014年10月上旬号 No.1132

皆さんの洋服のボタンはどのようなボタンでしょう?どんな素材から作られているでしょうか?プラスチックのない時代、ボタンはさまざまな貝殻から丸く繰り抜いて作られました。日本の貝ボタン生産は、洋式兵制や洋装の採用などを背景として、1877(明治10)年前後に大阪で始まり、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と戦争のたびに発展拡大し、輸出されるようになりました。原料の貝は、オーストラリアやインドネシア、中国などから輸入され、代表的な貝には白しろちょうがい蝶貝や黒くろちょうがい蝶貝、高たかせがい瀬貝(サラサバテイ)、ドブ貝など光沢のあるものが挙げられます。日本の貝ボタンは欧米で人気があり、明治末から昭和30年頃まで、貝ボタン119霞ヶ浦産カラスガイの貝ボタンは輸出産業の花形だったそうです。しかし昭和40年頃以降、安価で大量生産のできるプラスチック製品が流通するようになると、貝ボタン生産は減少しました。現在の貝ボタン生産は、奈良県川西町が全国のトップシェアを誇ります。土浦では、1915(大正4)年にカラスガイの貝殻でボタンをつくる工場が設立されました。その工場は、行方郡麻生出身の三みよし好亀きくじゅ久寿氏が設立した三好貝釦ぼたん工場で、土浦の旧町名の「三好町」はこれを由来としています。土浦駅前の桜町一丁目には旧町名の石柱「三好町」が建てられており、その由来が記されています。特徴的なことは、輸入された貝ではなく霞ヶ浦で採取できるカラスガイを原料としたことです。霞ヶ浦では江戸時代から昭和40年代の初めまで、カラスガイ(タンカイ・淡貝・田貝・丹貝)の採取が行われていました。身に関しては茹でて食用にしたほか、腐らせて肥料にもしたそうです。土浦城二の丸跡(現土浦市立博物館)の発掘調査では、このカラスガイのボタン未製品と貝殻破片が見つかっています。貝ボタンは、直径約1~2センチ、一部は平らに摺すられていますが糸穴はありません。カラスガイの破片の中には、ボタンを丸く繰り抜いた痕跡が残るものもあります。天然素材の貝ボタン、皆さん着けてみてはいかがでしょうか?今回ご紹介した資料の一部について、10月末まで上高津貝塚ふるさと歴史の広場にて展示中です。ぜひご覧ください。上高津貝塚ふるさと歴史の広場(?826・7111)問15広報つちうら2014.10.1土浦駅前にある旧町名「三好町」の石柱土浦城二の丸跡出土の貝ボタン未製品とカラスガイ破片