ブックタイトル広報 稲敷 2014年10月号 No.115

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概要

広報 稲敷 2014年10月号 No.115

広報稲敷平成26年10月号26ふるさと探訪第97号江戸崎古城図に見える寺院3芦名盛重の帰依により源譽慶厳が創建した大念寺●市郷土資料調査委員・内山純子大念寺は、土岐(土岐原)氏に代わって江戸崎城主となった芦あしなもりしげ名盛重の要請により、源げんよけいがん譽慶厳がひらいた浄土宗の寺です。正しょうじょうざんちこういん定山知光院といい、本尊は阿弥陀如来像です。慶厳は、肥前塩田城(佐賀県嬉野市)城主蔵原知光の三男で、永禄九年(一五六六)筑後善ぜんどうじ導寺(福岡県久く留る米め市)証譽令也の下で出家しました。元亀三年(一五七二)には中国地方をまわって畿内の諸寺を訪ねた後、関東に下り、川越の蓮れんけいじ馨寺(埼玉県川越市)から江戸の増ぞうじょうじ上寺(港区芝公園)に移り、一二世存そんおう應(観智国師)の弟子となりました。存應は、徳川家康の帰依を受けて、増上寺を将軍徳川家の菩提寺とし、関東浄土宗の大本山、関東十八檀林の筆頭、増九年(一六一四)二月に四世真しん譽よ良りょうてつ徹に相そうでん伝し、元げんな和三年(一六一七)一月二一日に亡くなりました。こののちも大念寺は、関東十八檀林のひとつとして、浄土宗僧侶の育成にあたりました。寛永一三年(一六三六)、良徹の代には開山堂・経きょうぞう蔵などが建立され、続いて方ほうじょう丈・庫く裡り・表門・楼門なども建てられています。正徳三年(一七一三)には、四月、五月、六月、一〇月、一一月に安あんご居(洞窟や寺院に籠って修行に専心すること)が行われ、学頭の講釈を聞くために、末寺五ヶ寺・所化五七僧が集まっています。大念寺境内古図には、勧(勤)学所や所化寮の記載もあり、檀林としての大念寺を偲ぶことができます。<参考文献>宇高良哲『近世関東仏教教団史の研究』所収「近世初期の増上寺」『茨城県史料中世編Ⅰ』大念寺文書及び中世文書概観上寺を中心とした近世浄土宗発展の基を築いたことで有名です。慶厳は、師存應との関係もあって、家康に召され、駿すんぷ府(静岡県静岡市)で家康と秀忠に法談を行い、病気がちな存應に代わって関東浄土宗教団の運営に携わることも多かったようです。文政年間に摂せつもん門が著した『檀林江戸崎大念寺志』には、江戸崎に勧かんげせっぽう化説法した慶厳に城主芦名盛重が帰依して、家臣に信仰をすすめたと記しています。慶厳は、不動院の天海とも交遊があったとされ、芦名氏統治下の江戸崎は仏教史の上では注目すべき時代でした。しかし慶長七年(一六〇二)佐竹氏の秋田移封に従い、盛重は江戸崎を離れます。外げごしゃ護者を失った大念寺でしたが、徳川家康はこの年一一月に河内郡東条庄で五〇石の寺領を寄進しています。慶長五年(一六〇〇)に類焼した堂宇(字浜)も同年現在地西町に再建されました。慶厳の徳を慕って、多くの所しょけ化(生徒)が大念寺に集まりました。土浦城主松平信のぶかず一の帰依も深かったようです。檀林としての基を築いた慶厳は慶長一△開山源譽慶厳坐像※開山源譽慶厳坐像及び大念寺境内古図の一般公開はしておりません。△大念寺楼門△大念寺境内古図●歴史民俗資料館?0299?79?3211