ブックタイトル広報 常陸大宮 2014年9月号 No.120
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広報 常陸大宮 2014年9月号 No.120
?????????? ????てんぐしょせい?????????????????????????昔ながらの風景が残る高部地区。その景観を形作っているのは、軒を連ねる旧家のたたずまいです。そのうちの1軒大森家は、江戸時代に特産の和紙を江戸へ売り出した紙問屋で、江戸時代以来多くの史料を有しています。近代以降は、いちはやく自動車による輸送業に身を転じ、高部自動車を興して旅客輸送を始めました。???????????????????????????????????????????????????????????ら7000枚ほど)の紙を商う紙問屋として藩に公許されました。一方で弘化2年には、庄屋を務めていた又左衛門の、小前百姓への紙の取り立ての厳しさや御救金の横領、百姓取り立てをせずに取り潰したことなどに対し、百姓130人が押しかけるという村方騒動がありました。この結果又左衛門は、庄屋の職を追われ、これ以後明治時代まで大森家が庄屋を務めることはありませんでした。????????もともと紙問屋の多くが村役人層だったこともあり、財力を背景に発言力を増した紙問屋たちは、地域の小前百姓を扇動する形で、藩内抗争いわゆる天狗諸生の乱に大きく関わっていきます。高部村内でも、大森家をはじめ岡山家、国松家、間宮家などの村役人層を務めた紙問屋は、改革派と保守派に分かれていました。藩の実権を握る勢力が変わると村役人も変わるという状況が各地でみられました。又左衛門は元治元年(1864)、改革派として徳川斉昭?????????????せつえんの?雪?冤?運動に加わり大発勢に参加。帰村後間もなく保守派(諸生派)の一派と思われる集団により打ちこわしの被害に遭っています。この打ちこわしの時には又左衛門は逃れて助かりましたが、母屋の柱には生々しい刀傷が複数残されています。?????????????????大森家では、系譜が判明する2代目の当主又衛門以来、高部村の庄屋や近代の戸長を務めていました。一時は醸造業をしていたようで、19世紀初頭には、所持していた酒造株を売却しています。その後、大森家が興隆するきっかけとなったのが、紙問屋経営を始めたことでした。常陸国北西部は、当時上質な紙を産することで知られていて、農民は田畑すこうぞを作る農間稼ぎに紙を?漉?き、原料となる?楮?を栽培しました。それらの農民から紙を買い集め、江戸や大坂などの消費地へ売りさばいたのが紙問屋です。紙はこんにゃくや煙草などとともに「御国産」(領内で産する特産品)の重要産物として、寛政2年(1790年)には、水戸藩の藩外売上高の3分の1を占めるほどでした。大森家文書では、18世紀後半から紙舟役(紙を漉く?槽?に課した税)や紙荷口銭(売れた紙の個数や金高に課した税)など紙の取り扱いに関するものがみられるようになります。そして大森家が経済的にも政治的にも最も注目されるようになるのが、4代目の当主又左衛門の時です。大森家は江戸の紙問屋村田七衛門と取り引きをおこない、弘化4年(1847)には年間200個(1個は4000枚かふね??????????????????????同年7月から9月にかけて起きたこの打ちこわしは、城下を含む水戸藩全領におよぶ大規模なもので、多数の死傷者を出しました。これは、天狗派の度重ななんぱつにんる過酷な金品要求や?南?発?人?(斉昭の雪冤のため江戸に向け上った改革派の人々)への攻撃のため、諸生派に属する地方役人やそれに同調した村人たちによるものでした。この打ちこわしで、改革派の上小瀬村庄屋井樋政之丞や大岩村庄屋竹内源介の家人らが殺害される事態となりました。しかし諸生派の政権は続かず、この後慶応4年に関係者は水戸を脱出しています。大森家の土蔵は、打ちこわしや幕末・文久3年に起きた火災にも耐え、動乱の時代を今も私たちに伝えてくれているのです。????????????52?1450???????????????????17