ブックタイトル広報なか 2014年9月号 No.116
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広報なか 2014年9月号 No.116
8歴史民俗資料館だより根本秀之介氏宅云根本秀之介氏宅云々根本定吉氏宅の檜木の根本定吉氏宅の檜木の枝これについては、根本喜代寿氏のご教示により現在のお宅(根本秀雄氏宅)を知り、また墓地には秀之介氏が建立した「父信之介夫妻」の墓碑があり、その碑文は東木倉出身の代議士根本正が撰文していることをせんぶん知ることができました。碑の書は代々水戸藩の能筆家を務めた北条家の北条時雨です。根本家は信之介が明治年(193805年)7月から1年間、秀之介が昭和年(1939年)から7年間14と父子二代にわたって五台村の村長を務めています。(墓碑写真・碑文とも後掲)これについては、根本定吉氏のご子息根本三代造氏(昭和2年生まれ)がその日のことを記憶されていて大変貴重なお話をお伺いすることができました。御巡幸のその日、母親に背負われて近所の人たちとお見送りしたこと、各家の雨戸は警備上全部閉じるように命じられていたこと、道路には警備員が並び裏には檜木ひのきが数本立っていたことなどです。なお、この檜木は根本家では記念に残していましたが、「道路拡幅と家屋の改築の際に伐採してしまった、よく知っていたら残しておけばよかった」とも話されました。元根本定吉氏邸付近巡幸永念之巡幸永念之碑昭和四年十一月十八日天皇陛下には高松宮殿下御同伴にて親しく本校附近を御巡幸遊ばされた本村の光栄を永く伝えんが為め、校門側に記念碑を建立し、毎年十一月十八日を御巡幸記念日と定め、御聖徳を偲び奉る。昭和五年九月十五日工事着手同十月八日建碑竣工同十一月三日建碑式挙行揮毫元水戸中学校長きごう菊池謙二郎氏碑文(正面)巡幸永念之碑菊池謙二郎謹書碑陰文(裏面)昭和四年十一月十八日觀兵式終了後天皇文武官三十餘人を從へて卒かににわ此地に出御あり闔村遍く鳳輦の轍しゅつぎょこうそんあまねほうれんてつを印せられ芻堯齊しく聖慮の忝すうぎょうひとかたじけなきに感泣す乃ち永く之を後昆に傳へむと欲志村費を以て爰に此碑を建つここ昭和五年十一月五臺村住民(原文はカタカナ入り)【注】9芻堯すうぎょうくさかりときこりから微賤・庶民の意五台尋常小学校と巡幸永念之五台尋常小学校と巡幸永念之碑現在の水戸農業高等学校側に正門がありました。写真からは校門の門柱が見え、右手に奉安殿が見えます。奉安殿は、天皇・皇后両陛下のご真影と教育勅語を安置するために昭和年(1937年)ころから全国の小12・中学校に造られたもので、火災や盗難を防止し、また保存・尊厳の維持のために当時としては珍しい鉄筋コンクリートまたは土蔵で造られました。その上大きく頑丈な鉄製の扉が付けられ、さらに周囲を鉄の鎖をわたした門で囲んでありました。多くは一目でわかる校門近くに建てられ、児童・生徒は登下校の際には必ず最敬礼をしたものです。根本三代造氏の記憶では、五台小学校でも正門を入ると奉安殿、二宮金次郎像と並んで大きな「巡幸永念之碑」(御巡幸の碑、三代造氏の記憶ではおよそ縦3メートル、横1・5メートル)が立っていて、毎朝奉安殿と記念碑や二宮金次郎の像を拝して校舎に入ったといいます。たしかに、写真をよく見ると、籠を背負った女生徒5人の後方にある白い正門柱の右手に黒く記念碑が見えます。おそらく、これが御巡幸記念の碑と思われます。しかし、現在はこの記念碑は小学校敷地内には見当たりません。察するに、奉安殿解体の折に撤去されたのかもしれません。占領政策への過剰な反応の一つであったかもしれません。陸軍大演習に関する記念碑は全国的に数多く残されていますが、はたしてこの碑はどこへ行ってしまったのでしょうか。奉安殿(『五台小学校百年誌』より)二宮金次郎像(『五台小学校百年誌』より)五台小学校(昭和10年代:塩野忠氏提供)(注9)