ブックタイトル広報 常陸大宮 2014年8月号 No.119
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広報 常陸大宮 2014年8月号 No.119
??????????????????????????????????????????????????????????? ?????????????マッチ以前の火起こしの歴史をたどると、木を擦り???????? ????合せる方法から、石と金属を打ち合せる方法へと変化してきました。そして、火花の発生に適した石(発火石=火打ち石)として、瑪瑙、石英、チャートなどが利用されました。その中でこの地域は、瑪瑙製火打ち石のめのう重要な産地として、古くから広く知られていました。????????????????千葉県文化財センターの研究などによると、諸沢地やじり?????ぎょくずい域の瑪瑙は、?石?鏃?等の石器として福島県や関東各県の瑪瑙や?玉?髄?は、微細な石英の結晶が集合してできた縄文時代の遺跡から出土していて、大昔から貴重な石鉱物です。縞模様をもつ玉髄を一般に瑪瑙と呼びまけいそ材として広く流通・活用されていたことも明らかです。す。地下深くから湧き出た熱水中の二酸化?珪?素?が、地さらに玉川の瑪瑙は「常陸国風土記」に“火打ち石に層・岩石の割れ目や空洞に沈殿してできたものです。適する”とあることから、奈良時代には、常陸大宮の非常に硬く、色は無色、白色、赤色、緑色、灰色など瑪瑙が発火石として利用されていたことが分かりま含まれる成分によって様々です。常陸大宮の瑪瑙は古す。そして、江戸東京博物館の研究などから、江戸時くから全国的に有名で、ある時期までは「火打ち石(王父石)」や「水戸火打ち」という呼名が一般的だったよ代の都内の遺跡から出土する火打ち石のほとんどが、うです。北富田~諸沢地域を主要産地とした瑪瑙であることも判明しています。水戸藩主徳川斉昭は、この地域の瑪???????瑙を原料にガラスの製造も行いました。市内の瑪瑙の産地は、小貝野層(1,700万年以上前)北富田~諸沢地域で産出された瑪瑙は、膨大な産出かくれきなどを起源とする玉川~緒川水系と、男体山火山?角?礫?量を誇り、江戸時代からマッチが普及する時代まで盛がん?岩?(1,500万年以上前)を起源とする北富田~諸沢系のんに採掘されて火打鎌とともに販売され、人々の生活2地域に分けられ、いずれも断層に沿った脈として見に大きく貢献してきました(江戸時代以前の記録につられます(写真1)。赤色の瑪瑙脈は未確認ですが、玉いては不明)。マッチが普及してからも、戦時中は兵川水系で見られる瑪瑙の礫はほとんどが赤色系です。士の携帯火打ち用具に使われ、終戦前後の物資不足時しかし起源が同じ地層でも、那賀など緒川水系の瑪瑙には、一般家庭での需要も高まったそうです。は無色~白色を示します。一方、北富田~諸沢地域の昭和30年代には、大量の瑪瑙が貨車で昭和電工に出瑪瑙は、ほとんどが無色~白色です(写真2)。荷されました。山方の神奉地では宝飾品の加工事業も行われ、採掘は昭和50年代まで続けられていました。??????????????????出荷のための運搬ルートや集荷場所も、市内山方だけけがのさいがね???????????ではなく、常陸太田市?天?下?野?や大子町?西?金?などと交通の発達に伴って変化し、また、一時的な集積所「石倉」も造られたそうです。今日、火打ち石は厄を払う「切り火」に利用される程度ですが、常陸大宮の瑪瑙は、『火の素』として1300年以上にわたり、人々の生活を支え続けてきました。さらに石材としては、数千年前の縄文時代からという歴史があり、未解明の貴重な歴史的遺産でその価値は?????????????多大です。“火打ち石街道”とも言うべき瑪瑙運搬ルートの解明、社会的貢献、採掘の歴史などの調査・研究が急がれます。?????????????????????????????????????????????※細貝虎雄氏、細貝豊氏、小野瀬善真子氏より情報を得て、(財)自然史化学研究所菊池芳文氏が執筆し、寄稿していただきました。????????????52?1450???????????????????19