ブックタイトル広報 稲敷 2014年9月号 No.114
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広報 稲敷 2014年9月号 No.114
広報稲敷平成26年9月号34ふるさと探訪第96号江戸崎古城図に見える寺院2天海の住持した寺・不動院●市郷土資料調査委員・内山純子今回は天台宗不動院をご紹介いたします。不動院(醫王山東光寺)は、慈覚大師円えんにん仁(平安前期、天台座主三世)が信太荘安中(美浦村)に開いた寺が前寺であったとされていますが、文明二年(一四七〇)に江戸崎城主土岐原景かげなり成を檀だんおつ越に、比ひえいざん叡山無むどうじ動寺の僧幸こうよ誉法印によって中興されました。四世幸こうけん賢の代に、常陸国に展開した真言宗との絹けんいそうろん衣相論に関与しましたが、天文二四年(一五五五)七月に後奈良天皇の綸りんじ旨が不動院に出されています。天台宗の勢力の強かった常陸国の中でも、土岐原氏を外げごしゃ護者としていた当時の不動院の探たんだい題となり、論義を復興し、全焼後の延暦寺復興を図りました。寛永二年(一六二五)に江戸城の鬼門にあたる上野忍しのぶがおか岡に東叡山寛永寺を創建し、のち天台宗僧侶の学問・教育の場として東叡山勧かんがくいん学院を創建しています。天台宗中興の祖と崇あがめられていますので、ご存知の方も多いと思います。天海は不動院を修復し、慶長八年(一六〇三)まで不動院の院務にかかわりました。不動院は天海が関東において最初に住持し、その後の活動の基盤となった寺です。住寺中に本尊が不動明王から山さんのうほんち王本地に替えられており、「枕ちんげつ月三さんじんぎ身義新しんじょうがんぼん成願本」の書写(天正二〇年)、請しょうう雨(あまごい)の祈祷と芦名盛重夫人の安産祈祷、末門寺院の統制等がその業績として知られています。請雨の祈祷は天海の密みっきょうけい教系の天台僧とが確固たる地位を占めていた事情がわかります。こののち江戸崎城主土岐治英が大壇越となって、安中にあった寺院を江戸崎に移し、本堂を建立しました。五世清せいきゅう久の代です。天てんしょう正一八年(一五九〇)北条氏方であった土岐原氏は、佐竹氏の江戸崎城攻めにより衰微しました。土岐原氏に代わって江戸崎城主となった芦あしなよしひろ名義広は、会津黒川稲荷堂(福島県会津市)から隨ずいふう風を招いて不動院を再中興させました。随風はこの年、天海と名を改めました。天海は、徳川家康の命で比ひえいざんさいこうしき叡山最高職?不動院蔵「慈眼大師御傅記?」統制は土岐氏の時代からその動きがみられますが、天海住持中に、三さんしなん指南(吉祥院・満願寺・円密院)、寺じちゅう中(南なんぞういん蔵院・常光院・江龍院・玉ぎょくせんいん泉院・遍へんじょういん照院)、町寺中(持泉院・円福寺・花蔵院・神宮寺・金こんぞういん蔵院)が整備されました。慶長七年佐竹義宣の秋田移いほう封にともない、江戸崎城主芦名盛重も角館に移りましたが、不動院は天海が住持していた由緒ある寺院として、徳川家康から河内郡東条庄で一五〇石の寄進(朱印状)を受けました。寛永一一年には東叡山直じきまつじいん末寺院となり、山門三院執行探題大僧正の名で、「掟おきて」一三条が出されており、二時(朝夕)の勤行、東照宮大権現の法ほうらく楽、三季の講こうえん筵などが義務づけられています。●歴史民俗資料館?0299?79?3211しての一面を示すものです。文禄二年(一五九三)の夏は、異常な日照り続きで農民は苦しんでいました。天海は求めに応じて、祈き雨うの法を修し、降雨をもたらしたとされています(東叡山開山慈じげんだい眼大師しえんぎ縁起)。不動院の末門寺院の△天海画像△不動院本堂