ブックタイトル広報なか 2014年8月号 No.115
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広報なか 2014年8月号 No.115
わがまちの環境を考える???????????????????????????????????????????スギは、日本固有種の常緑針葉樹で、学名を「クリプトメリア・ジャポニカ」といい、“隠された日本の財産”という意味があります。スギは今から200万年前には日本に出現し、縄文・弥生時代にはすでに全国に広く分布していました。スギは古い時代から優秀な材木として生活の中で活用されてきた、世界に誇れる日本独自の歴史的な文化財と言えます。????????????????1“真直ぐの木「直木」”とする説(貝原益軒「大和本草」)2“傍らにはびこらず上へ進み上る木として「進木(ススギ)」”とする説(本居宣長「古事記伝神代七之巻」)という2つの説があります。??????????????????????那珂市には多くのスギ林があり、推定年齢が500年のスギの巨木(天然記念物)も3樹あります。市内には、徳川光圀(水戸黄門)の時代に名前をもらったと言い伝えのある“杉”という地名が今も残っており、戦後はスギの造林用苗木の生産地として全国的に有名になりました。???? ??????スギは、昔から寺社仏閣を建立あるいは修造に使用するため、寺社仏閣の周辺に植林が行われていました。市内でスギ林が寺社内に多く見られるのはそのためです。那賀郡(那珂地方)においては、苗木の植林や伐採など、林業らしきことは平安時代には始まっていたようです。平安時代(866年)に編纂された歴史書「日本三大実録」には、“鹿島神宮惣六箇院は、20年間に一度修造を加えるが、そのための用材五万余枝を伐採する山は、那賀郡内にある”との記載があります。これによって、那賀郡内にかなり広大な鹿島神宮の用材林があったことがわかります。江戸時代には、水戸藩は御立山という藩有林を持っており、植林を行っていました。植林をしていくうえでの苗木が不足した場合には、他村に苗木を求め、当時苗木の特産地であった鴻巣村と杉村から不足分の苗木を購入しました。さらにこの時代には、苗木の植採や伐採だけでなく、製材・出荷も行われました。那珂町苗木は、明治中期から杉、横堀、堤、中宿、上宿などで広く生産されるようになりました。終戦後、茨城県は全国第1位のスギの苗木産出県となり、那珂町はその中心的生産地となりました。昭和50年度の那珂町のスギの生産量は約350万本、売上高は約1億3000万円で、ともに、県全体の70~75%と推定されました。※参考文献…「那珂町史-中世・近世編」と「那珂町史の研究第7巻久保田喜一著“古代における那珂町周辺の産物について”」「河本幸郎著茨城の産業-その歴史をたどって」12