ブックタイトル広報つちうら 2014年8月上旬号 No.1128

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広報つちうら 2014年8月上旬号 No.1128

15広報つちうら2014.5.1公わかさぎ魚、白しらうお魚、鰻うなぎ。昨今ではなかなかお目にかかれない霞ヶ浦の特産品ですが、かつては土浦駅の駅弁にも登場した、土浦の名産品でした。写真1は昭和20年代まで見られた「公魚焼き」の様子です。衛生上の理由で禁止されるまで、炭火焼きは道路沿いの風景のひとつとなっていました。公魚の思い出を、川口町の川魚商に生まれた瀬せこざわ古澤とみさん〔大正10(1921)年生まれ・以下「とみさん」〕は、次のような詩に表現しています。117霞ヶ浦に育まれた暮らしの記憶―「公わかさぎ魚焼き」がみられた頃―「わかさぎを焼くころ」凍った湖のかけらの様な白銀の公魚が土間にあふれる公魚を刺す女達の絶間ないおしゃべりに古枯しがまうお母さんあなたは真夜中の2時3時まで公魚を焼いていましたね炭火が真赤にもえてあなたのほつれ毛にえりに肩に灰が雪のようにちっていましたっけシンデレラの童話を胸にこたつで眠ってしまった幼い私故郷の街角に公魚を焼くこうばしい香が流れ湖は西風があれているでしょうねお母さんこの詩は昭和36(1961)年頃の読売新聞「師走のうた」に掲載されたもので、当時とみさんは土浦在住でしたが、子どもの頃の風景を思い出しながら、女性の暮らしの厳しさも伝えようと創作されたそうです。土浦の川魚商は「大土浦市精密図」(昭和25年発行)によれば、土浦駅周辺で20件近くが商いをしていました。そのひとつ瀬古澤由よしまつ松さん(二代目)の三女がとみさんでした。公魚のほかに鯉こいなども商い、説せつた田商店(弁当店)には長い間、鰻を納めていました。魚は鮮度が肝心です。写真2は瀬古澤家で魚の鮮度を保つために利用した突きぬき井戸(自じふん噴井戸)です。昭和7(1932)年、鯉や鰻が水揚げ後急速に弱るので、二代目瀬古澤由松さんが、木田余の井戸屋に掘らせたもので、霞ヶ浦航空隊内の井戸に次ぐ、茨城県で二番目の水量といわれました。上の丸い筒に水がたまり、そこから何本もの鉄管で、水が絶えずかごの中に流れる仕組みです。このため、魚は常に生き生きとしていました。七軒先の川魚商瀬古澤武たけさぶろう三郎(由松弟)方まで道路に鉄管を通して流れ、水音は四方に絶えずごうごうと響いていました。この水が出た初めての朝には隣家の人が、大雨と勘違いしてその日は仕事を休んでしまったとか。大水害の時は、水に困った人達が沢山来たというエピソードも残りますが、その後30年の時をへて、川口町の道路工事で水は出なくなりました。とみさんは「霞ヶ浦で生きたことを忘れるな」「霞ヶ浦の名産で生きているので、このことは忘れるな」という父二代目由松さんの言葉をよく覚えているそうです(平成25年採話)。説田商店の駅弁の掛紙などを11月16日?まで展示室3で展示しています(期間中一部展示替えあり)。市立博物館(?824・2928)問15広報つちうら2014.8.1写真1公魚焼きの風景写真2突きぬき井戸由やまよし