ブックタイトル広報 稲敷 2014年8月号 No.113
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広報 稲敷 2014年8月号 No.113
文ぶ邑んゆう)、美浦村舟子の海源寺(開山継けいあん菴道どう六世普ふこうていしゅく光貞祝の代に、東洲一派の本寺と明めい堂ど素うそ哲てつ)、同市伊能の長ちょうこういん興院(開山高こ山うざん存続し、元禄一〇年(一六九七)三月、一守し暾ゅとん)、千葉県成田市土室の祥しょうほういん鳳院(開山管天寺は弟子を育てる修行道場として育ちました。下太田の桂芳院(開山耀よう山ざん中心に多くの末寺が開かれています。られ、その門下から多くの優れた僧侶がの興禅寺、根本の養泉寺など稲敷地方を管天寺の開山東洲周道は名僧として知林寺、中山の淨源寺、柴崎の東光寺、古渡住じ僧ゅうそうになったと伝えます。充じ補ゅうほの代に、下太田の智心院、天王の桂を建立し、みずから出家して管天寺の日にっしゅうどんぎょう州呑尭・九世田でん叟そう正しょうそん村・一〇世綴てつ厳がん成は明応六年(一四九七)沼田に常じょうこうじ晃寺た動向もあって、寛永年間の住僧八世いて建立した土岐原氏の菩提寺です。景と、一般の人々が菩提寺を必要としてきて、延徳二年(一四九〇)にと東う洲周道を招しゅうしゅうどう幕府の仏教政策(本ほん末まつ制度と寺てら請うけ制度)成、祖父憲のりひで秀、父景かげひで秀の追ついふく福菩提所とし外護者を失った管天寺でしたが、江戸名管天寺殿輝きさ山ん晃こうこうあんしゅ公庵主)が、曾祖父秀に再建されたと伝えます。管天寺は、江戸崎城主土岐原景かげなり成(法た管天寺の伽がら藍んも焼失し、その後現在地の現地支配にあたりました。時の戦火で、現在の鹿島神社境内にあっ九)には惣そう政まんどころ所として信太荘(稲敷地方)〇)佐竹氏との戦いに敗れました。この敷地方に移り住み、応永一六年(一四〇〇年続きましたが、天正一八年(一五九秀ひ成でなりの代に関東管か領んれい上杉憲の方りかたに従って稲治は英るふさ?治はるつな綱と継承し、その支配は約二〇土岐原氏は美濃の守護土岐氏の一族で、外げ護ごし者ゃ土岐原氏は景成ののち、治はるより頼?尊釈迦如来)をご紹介いたします。は一大禅林として栄えました。です。今回は観貞院=曹そう洞とう宗しゅ管うか天んて寺んじ(本(六世益えきそう叟圭けい助じょ)が開かれ、中世の管天寺いずれも江戸崎城に関係の深い仏教寺院の西光寺(五世點てんしつしょうばい室祥楳)、四箇の圓福寺されていることに気づかれたでしょうか。塚の徳昌寺(四世泰たいしつ室善ぜん初しょ)、阿見町吉原に、観貞院・不動院・大念寺の三寺が記のち下須田の般舟寺(三世繁はんしつぼん室梵隆りゅう)、椎第九三号「三枚の古城図」の江戸崎城図胤いん)は東洲の弟子が開いた寺です。この●市郷土資料調査委員・内山純子土岐原氏の菩堤寺管天寺江戸崎古城図に見える寺院1ふるさと探訪第95号△境内墓地△開山伝衣△管天寺本堂△箱書ています。五ご條じょう麻あ布さぬの無むか環ん紐ひも袈け裟さが寺宝として残され?0299?79?3211は東洲周道が着用されたと伝える廿にじゅう●歴史民俗資料館一〇月二三日は開山忌にあたり、寺にえています。世寛かんこう厚泰たいおん恩の代に再建しました。土岐原氏の菩提寺であった面影を今に伝失しましたが、文政三年(一八二〇)二三岐氏の家紋と同じ桔ききょう梗の紋がついており、と伝えられる大仏火事に遭い、伽藍を焼造物があり、また屋根瓦や玄関扉には土梁り山ょうざんの代に、江戸崎の街まち場ばをほぼ焼いた宝ほ篋うきょういんとう印塔、さらに板碑やち力か石等多くの石らいし文化六年(一八〇九)二二世住じゅう玄げん岐原氏累代の墓と伝えられる五輪塔やして常じょうごうえ恒会の寺格を与えられています。境内墓地には、江戸崎城主であった土広報稲敷平成26年8月号26