ブックタイトル広報なか 2014年7月号 No.114
- ページ
- 4/24
このページは 広報なか 2014年7月号 No.114 の電子ブックに掲載されている4ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 広報なか 2014年7月号 No.114 の電子ブックに掲載されている4ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
広報なか 2014年7月号 No.114
4功績の概要 明治 年(1900年)茨城県那33珂郡木崎村門部(現在の那珂市門部)に生まれました。水戸中学校(現在の水戸第一高等学校)を中退し、大正8年(1919年)日本中学校を卒業しました。 その後日本大学で2年学び、やまと新聞社水戸支局に入社して、大正 年(1922年)に報知新聞社水11 戸支局に移り、間もなく土浦支局長に抜擢されました。 大正 年(1925年)には夕刊14茨城民報社を創立し、また昭和2年(1927年)には茨城新聞社と合併して取締役になり、土浦市にサクラ印刷所も創立しました。 昭和4年(1929年)に土浦町議会議員に当選した後、昭和6年(1931年)には茨城県議会議員選挙で出生地である那珂郡選挙区から出馬し当選しました。昭和7年(1932年)には茨城県第2区から衆議院議員に当選しました。その後も2回の当選を果たし、中央政界では、大臣秘書官、政務次官を務めるなかで、幅広い人脈形成を成し遂げました。 さらに、昭和 年(113938年)6月の土浦大水害による復興対策や久慈川の治水促進など、郷土のためにも尽力し、中央政界では終戦まで活躍を続けました。 また、戦後の食糧不足に鑑み、阿見町にあった霞ヶ浦海軍航空隊跡地・土浦海軍航空隊予科練跡地の文化的再利用を目的として、現在の茨城大学農学部および霞ヶ浦高等学校の前身となる財団法人霞ヶ浦農科大学を、霞ケ浦干拓工事などに携わっていた株木建設の社長株木正一氏らとともに創立し、初代理事長に就任しました。そのほかにも、常陸セメント株式会社の会長に就任したほか、茨城石炭株式会社を創立するなどの活躍をしました。 氏は、大変な努力家で身体は 貫24(約 茜)もあり、温和で度量の大き90い人でした。多くの事業を手掛け、人脈を駆使し、戦後の活躍を期待されましたが、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により公職追放となりました。その後体調を崩し、惜しまれながら昭和 年(1949年)24 月3日に永眠しました。11 なお、昭和 年(1951年)に26公職追放が解除となりました。名誉市民選定の理由 衆議院議員として県北地域の発展に尽力するとともに、県南地域の戦後復興にも多大な貢献をしました。また、阿見町にあった旧海軍施設跡地の文化的再利用を目的として、現在の国立大学法人茨城大学農学部および学校法人霞ヶ浦高等学校の前身となる財団法人霞ヶ浦農科大学を創立した功績は深大であり、茨城県の農業振興において極めて貴重な財産となりました。 氏は政界だけでなく経済界でも優れた手腕を発揮し、常陸セメント株式会社の会長に就任するほか、茨城石炭株式会社を創立するなど実業家としても目覚ましい活躍がありました。 氏の活動は広く茨城県下に及び、その功績は誠に顕著であり、郷土の誇りとして尊敬に値するものと認められるため、名誉市民として選定するものです。秘書広聴課秘書グループ緯298・1111(内線423・424)問い合わせ1900(明治 )年331914(大正3)年1919(大正8)年1921(大正 )年101922(大正 )年111924(大正 )年131925(大正 )年141929(昭和4)年1931(昭和6)年1932(昭和7)年1936(昭和 )年111939(昭和 )年141940(昭和 )年151944(昭和 )年191946(昭和 )年211947(昭和 )年221949(昭和 )年24木崎村で生まれる茨城県立水戸中学校(現水戸一高)に入学日本大学入学大学を中退し、やまと新聞社入社水戸支局勤務となる報知新聞社土浦支局長になる報知新聞社を退社し衆議院議員秘書となる夕刊茨城民報社を創立土浦町議会議員に当選那珂郡選挙区から茨城県議会議員に当選茨城県第2区から衆議院議員に当選文部大臣秘書官となる陸軍参与官に任命される旭日小綬章を受ける小磯国昭内閣の厚生政務次官に就任財団法人霞ヶ浦農科大学創立常陸セメント株式会社創立茨城石炭株式会社創立土浦の自宅で逝去 中井川 浩氏なかいがわひろし(故) 明治 年9月 日?昭和 年 月3日33252411(1900年) (1949年)那珂市名誉市民紹介(第3回)【中井川 浩 略年表】