ブックタイトル広報 稲敷 2014年7月号 No.112

ページ
30/32

このページは 広報 稲敷 2014年7月号 No.112 の電子ブックに掲載されている30ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

広報 稲敷 2014年7月号 No.112

広報稲敷 平成26年 7月号 30ふるさと探訪 第94号  三枚の古城図②             ●市郷土資料調査委員・平田満男②浮島城図明治期の地誌では、岡ノ内に土塁・堀が残り、高さ百尺許、面積二千五百坪と見え、物部信太連の子孫がこの地に住して浮島氏となり、太郎安広が修築して居城としたが、天正年中、佐竹氏に滅ぼされ、廃城となったと伝えています。また、平将門の与党武蔵権守興世王が築いたとの伝承もある。さらに、戸崎には信太義広の館跡があったとも言われている。義広は、源為義の子で保元の乱で父に従って戦い敗れ、浮島に潜居し、信太三郎先生と号した。源頼朝の佐竹氏追討の招集に応じたが、間もなく反旗を翻し、鎌倉を攻めようと下野に軍勢を出したが、小山朝政のために敗れて、木曾義仲を頼り西走したことが知られている。また、西浜の観音堂は、保元の乱に敗れ、信太の浮島に遠流になった藤原教長が、七年間の配所生活を送った跡地と伝えられている。 現在の尾島神社が図中の「シマ明神」、西ノ洲が「芝原横七町、堅一里」、霞ケ浦が「鹿嶌水海」、下須田・上須田が「下深田村・上深田村」と記され、水神・押堀・利根川・敷市)、馴馬城(龍ケ崎市)、小田城(つくば市)等と共に、北畠親房の手紙にも登場している。このように古代、中世において二度、歴史上の事件と関わりのあった城として、古城図収集の対象となったのではなかろうか。●歴史民俗資料館 ?0299?79?3211③志田(佐倉)城図陸奥国志田郡と分類されているが、現地に残る遺構・遺称地と図中の記載事項との検討の結果、常陸国信太郡に存在する佐倉城跡と断定できる。「フット町」は古渡、「今ハ志田村」は信太古渡で、「東永山明王寺圓密院」も現存鹿嶋・板久(来)の位置関係も現在とほぼ同じであり、霞ケ浦に浮かぶ島の中央部が城郭部分とされていた。し、「水海、三浦淵」は干拓前の榎ケ浦(稲波)と余郷入及び小野川が霞ヶ浦に流入する古渡入に比定され、「江戸崎町、昔土岐殿古城」は、まさしく江戸崎土岐原氏の本拠地を示しており、「百間計廊下橋」は小字地名の石橋、「三丸」は松葉様の小字と土塁・空堀、「二丸」は横築地、兵崎、城西、城ノ内、兵虫、牧野谷津の小字、弁天池の地形、「本丸」は殿屋敷、高名屋敷、花立、北見平の小字と土塁、空堀、また、信太小太郎旗立松の伝承などの小字地名・地形に名残りが残されている。また、江戸時代の大名相馬家の系図は、平将門の子孫信太小太郎から相馬小次郎に改称したとの伝承を伝えている。さらに、佐倉城は南北朝争乱の中、北畠親房が常陸で合戦を展開した時に味方した南朝方の城として、神宮寺城、阿波崎城、亀谷城(稲△佐倉(明治14年の地図)△古城図(佐倉城)△古城図(浮島城)△浮島(明治14年の地図)