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概要

桜川市勢要覧2014

安心自治育成Story No.4青あお木きむらしほう村仕法あおきぜき。姿を変えながらも、今も桜川上流に在り続ける青木堰その遺構が物語る、二宮尊徳が成した一大復興事業とは。明治時代の青木堰。尊徳が再建した当時の姿を窺い知ることができます。調和自立まったのです。農家も離散やし、米の収穫量は激減してしその結果、水不足が慢性化放置されるようになりました。なくなると、堰は壊れたままなり、幕府の支援が受けられ川かわ副ぞい新しん右衛え門もん頼より賢たかの知行地と1708(宝永5)年に旗本は大きくありませんでしたが、府領でしたので、地元の負担青木村は江戸の初期から幕ていました。れ、改修に多大な費用がかかっから、堰は増水のたびに流さしかし川が急流であったこと出する恵まれた土地でした。桜川市青木)は良質の米を産は水が貯えられ、青木村(現です。この堰のお陰で水田に川の上流青木地内にかかる堰せき青木堰は、戦国の昔から桜青木村が陥った窮状桜川市総合計画伝統と豊かな自然に恵まれた田園文化都市?やすらぎのまち桜川?[ ]報桜川市では、後期基本計画において市としての一体感の強化、個性の発揮(イメージの強化)、組織や人材育成の充実などを通じ、「自治」「安心」「育成」「調和」「自立」の5つの基本理念に基づき、将来像である「伝統と豊かな自然に恵まれた田園文化都市~やすらぎのまち桜川~」の実現を図ります。そのために5つの基本政策を定め、市民と行政の協働によって、日本の原風景である田園空間や歴史・伝統を守り育て、個性と魅力にあふれ、だれもが安心して住み続けられるやすらぎのまち桜川市を目指していきます。岡本秋暉による二宮尊徳56歳の肖像。身長182cm体重94kgの巨漢であったといわれています。しい成果は、いったのです。この目覚ま業に励み、豊かな村に変わってした。戸に増え、村人は間を驚かせまは1839(天保助け10)合年っにては農62完成さ日、約難工事せを、60両世で10数済にまでおよびました。農家数根のふき替えから農民の借財返橋の建設、神社仏閣や民家の屋掛かるとされたの復元、新田開発、用水路、道路、工当費時1、0工0期両50日余、木村の復興事業は、荒れた田畑徳の教えと全国報徳サミット第17回全国報徳サミット桜川市大会の模様「青木村仕法」と呼ばれた青村人らを督励し、復興事業で豊かな村にてきた大勢の作業員やき、桜町陣屋から連れ法を用いたのです。尊徳は自ら設計図を引で沈めるという、前代未聞の工年のことでした。落としたあと、岩石を投げ込ん手したのは1833(天保4)枠となる小屋を作り、綱を切りれた尊徳が、青木堰の再建に着現場の上流に綱を渡して堰の型判したのです。その熱意に打た能率を上げました。また、建設の復興を助けてくれるよう直談を支給して士気を高め、作業の小学生たちが青木堰完成までの劇を上演年下、尊37人徳はの、も1と8に3赴1き(、天青保木村2)由に飲み食いさせ、破格の賃金業員達には用意した酒、餅を自判を知った名主館たて野の勘かん右衛え門もん以効性を実証するものでした。作に知れ渡っていました。その評尊徳流の仕法(復興計画)の有した二宮尊徳の名は、近隣諸国知行地4千石の復興事業に成功二にの宮みや尊そん徳とく(金きん次じ郎ろう)です。当時、田原(神奈川県)出身の農政家この村の危機を救ったのが、小類例のない工法で堰を改修減少してしまいました。青木堰の設計図130戸あった家が39戸まで移住を強いられ、元禄年間に尊徳は、物や人に備わる良い点や持ち味を「徳」とし、それを活かして社会に役立てていくことを「報徳」と名付けています。多くの人々を救ったこの教えを、まちづくりや人づくりにつなげていくために毎年開催されているのが「全国報徳サミット」です。尊徳にゆかりがある18市町村が集まって、報徳の教えについて学んでいます。桜川市では、平成23年に第17回大会が開催されました。7 Sakuragawa City Guide 2014Sakuragawa City Guide 2014 6