ブックタイトル桜川市勢要覧2014
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桜川市勢要覧2014
Story No.3真また。南北朝時代には南朝方とて所領の地頭職を安堵されまし視できなくなると御家人となったものの、幕府の影響を無壁かべへの積極的な関与はしなかっ当初真壁氏は、鎌倉幕府氏し戦乱の世を乗り越えて跡に指定されています。た。現在この城郭跡は、国の史こうの興としての役割も果たしていまし事的要塞であると同時に、政庁それぞれに堀がめぐらされた軍に二の丸・中城・外曲輪と続き、12.5ヘクタール、本丸を中心用して建てられた平城で、広さ壁城は足尾山西麓の台地を利隆りゅう桜川の流域にあって、中世の面影を今に伝える城下町・真壁。その基礎を築いた真壁氏の、栄枯盛衰の歴史を辿ります。地区に真壁城を築きました。真真壁氏は、現在の真壁町古城を名乗るようになりました。に勢力を広げ郡名と同じ真壁氏て入郡したものと思われ、徐々は地方行政官である郡司職としる長たけ幹もとを祖としています。長幹族であり、多た気け直なお幹もとの四男であ武む天皇の流れをくむ常陸平氏一現存する真壁城唯一の遺構「薬医門」。関ヶ原の合戦の後、雨引山楽法寺に移築されました。関東では数少ない桃山期の城郭建築物遺構です。のが真壁氏です。真壁氏は、桓かん旧明野町の一部)を治めていた壁地方(旧真壁町・旧大和村・までの約430年にわたり、真平安時代末期から戦国時代真壁氏の誕生います。の情愛物語として描かれてが、謡曲「桜川」では母子本来お家騒動に絡む物語です「桜川」です。「櫻児物語」は、世ぜ阿あ弥み元もと清きよに作らせたのが謡曲にした第六代将軍足あし利かが義よし教のりが、を献上しました。その物語を目氏うじに、花見噺「櫻児物語」一巻際は鎌倉公方)であった足あし利かが持もち部べ祐すけ行ゆきが、当時の関東管領(実年に櫻川磯部稲村神社の神主磯いそ室町時代の1438(永享10)始まりは花見ば噺な「し櫻さく児らこ物語」桜さくら川がわ流りゅうStory No.2たん譚離りぜあみ室町時代中期、世阿弥によって書かれた謡曲「桜川」。桜川を舞台に描かれる、哀しくも美しい母子の物語。狂女となった母が、桜川を流れる桜の花びらを網ですくう「網の段」の舞。謡曲「桜川」最大の見せ場です。れました。壁・筑波両郡に領地を与えらな合戦のほとんどに参加し、真れたといいます。佐竹氏の主要「鬼おに真ま壁かべ」と渾あだ名なされ、恐れら駆け抜け、その秀でた武勇から「樫かし木のき棒ぼう」を振り回して戦場をした。長さ2メートルもの木杖え、対北条氏の最前線に立ちま久ひさ幹もとは、佐さ竹たけ義よし重しげに早くから仕氏の家臣となります。特に真ま壁かべをうまく渡り歩き、やがて佐竹送ります。佐さ竹たけ氏と北ほうじょう条氏の間や様々な争乱の絶えない時代をその後も、真壁氏は家督争い没収の処分も受けました。公方の対立に巻き込まれ、所領室町時代になると、幕府と鎌倉げ、大きな犠牲を払っています。の南朝方と骨肉の争いを繰り広に転じたことで、一族内や近隣朝方の高こうのもろふゆ師冬に攻められ北朝方して活動をしていましたが、北磯部寺で母と子が再会する場面で、物語はクライマックスを迎えます。いわれ、我が子の名が桜子であとを語りました。桜を信仰するはるばる我が子を探しに来たこ出して訳を聞くと、九州から、ることを聞いた住職が女を呼びて、狂った有様を見せる女がい桜川に散る花びらをすくっり着いていました。狂き女ょうじょとなった桜子の母親がたど川のほとりには、長い旅路の末、に出かけます。丁度その頃、桜の季節、桜子は住職と共に花見りしていました。春も盛りの桜城県)で桜子は磯部寺に弟子入それから3年、遠く常ひた陸ち国(茨のくにに出ます。嘆き悲しみ、子の行方を捜す旅ちます。その手紙を読んだ母は、母に渡してくれとたのみ国を立にわが身を売り、お金と手紙を家の子・桜子は、東国の人商人の貧しい家がありました。その馬場の西に、母ひとり子ひとり九州の日ひゅうがのくに向国(宮崎県)桜の生き別れた母子の物語17代城主・真壁久幹(まかべひさもと)と伝わる肖像。剣豪・塚原卜伝(つかはらぼくでん)に師事し、武田信玄(たけだしんげん)に「智仁勇兼備えたる者」と評されるほどの武将であったといわれています。いでしょうか。が大きく影響しているのではなは、中世に真壁氏が残したもの現在の基礎を築いてきた背景にました。往時の町並みが残るも発展を続けていくことができ東北方面への物流の拠点として礼に多くの民衆が集まり、またしかし、この地域は大市や祭げました。下町としての展開は終わりを告やがて真壁城も廃城となり、城県角館の地へと移っていきます。氏とともに常陸国を去り、秋田えを命ぜられ、真壁氏は佐竹いを傍ぼう観かんしていたことから国替主君の佐竹氏が、関ヶ原の戦時代を駆け抜けた真壁氏あったそうです。モデルとなった神宮寺が社の境内には、磯部寺のも指定されています。神知られ、国の「名勝」に古来より桜の名所としてきました。神社の周辺はは代々藩主の崇拝を受けての舞台、櫻川磯部稲村神社た唯一の能楽作品謡曲「桜川」茨城県を舞台に世阿弥が残し深々とした情感を楽しめます。大切にしてきた、花にまつわるる特別な舞は必見で、日本人がです。クセから網の段と呼ばれる様は、能にしかできない表現桜が親子の心情と重なって描かれなされ、観る人の胸に迫ります。う母親の人情がきめ細かく織りをいたわる健気な子と、子を思子別れの狂女物のひとつで、母謡曲「桜川」の見所と舞台教訓が語られます。親子の道は本当に有難いというして、仏の恵みを得たことから、て国に帰ります。後に母も出家くれ、母は正気に戻り、連れ立っき合わせます。二人は嬉し涙に住職は、連れている桜子を引たのです。らせて狂乱の極みとなっていることなどを語り、想いを募真壁氏が遺した足跡いのししえはたさしもの猪絵旗指物しろしゃじたちばなもんじんばおり白紗地橘紋陣羽織まかべさだもと真壁貞幹像関ヶ原の戦いの後、国替えを命ぜられた真壁家は、江戸時代には秋田藩の家老を務め、現代に数多くの資料を伝えました。中世真壁文書はお茶の水図書館に保管され、その他の資料は平成6年に第34代当主から旧真壁町に寄贈されました。みよしまなぶおうか三好學が命名し『櫻花ず圖大正10年に『櫻花圖譜』を刊行した日本植物学の祖・三好學博士。「景観」という言葉を生み、自然保護に尽力しました。ふ譜』に記した磯部の山桜11種5 Sakuragawa City Guide 2014Sakuragawa City Guide 2014 4初見桜(ハツミザクラ)薄毛桜(ウスゲザクラ)青桜(アオザクラ)白雲桜(シラクモザクラ)青毛桜(アオゲザクラ)梅鉢桜(ウメバチザクラ)大和桜(ヤマトザクラ)樺匂(カバニオイ)源氏桜(ゲンジザクラ)桜川匂(サクラガワニオイ)初重桜(ハツガサネザクラ)資料提供/櫻川磯部稲村神社