ブックタイトル広報 稲敷 2014年5月号 No.110
- ページ
- 34/36
このページは 広報 稲敷 2014年5月号 No.110 の電子ブックに掲載されている34ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 広報 稲敷 2014年5月号 No.110 の電子ブックに掲載されている34ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
広報 稲敷 2014年5月号 No.110
広報稲敷平成26年5月号34ふるさと探訪第九二号水郷之美冠天下●市郷土資料調査員・姥貝守右の標題の語句は、「水郷の美、天下に冠かんたり」と読み下します。これは茨城・千葉の両県にまたがる水郷の美しさを表現したもので、初代の水郷大橋のたもとに建っていた石碑に刻まれたものです。遡さかのぼってみれば、明治政府の国家施策「殖産興業」に伴い、国内の内陸水運の振興が図られます。明治二年(一八六九)には明治政府が西洋型の風ふうはんせん帆船や蒸気船の民間所有を許可し、同九年頃には「利根丸」、「盛運丸」、「信義丸(おいらん丸)」といった各廻かいそう漕会社の蒸気船が木きおろし下・銚子間の利根川航路で激しい運賃競争をしていた、ということです。このような利根川水運の発達により、明治一〇年には関東の川蒸気船の中でもっとも有名な「通運丸」が就航し、明治二三年には東京・佐原・潮来・銚子を結ぶ航路などが開設されます。一方の陸おかじょうき蒸気こと鉄道については、総武鉄道(銚子)・成田鉄道(佐原)・日本鉄道海岸線(今の常磐線:土浦)の整備・発達などが見られます。こうした水上、陸上交通が発達し、人や物の移動が活発になる中で、比較的東参考資料・『図説川の上の近代』川蒸気合同展実行委員会・『水郷を旅する人々Ⅱ』千葉県立中央博物館大利根分館●歴史民俗資料館?0299?79?3211現在、この石碑は昭和五二年の新水郷大橋への架け替えにより、香取市立水生植物園の駐車場に移築されています。(写真2)碑の高さ四メートル五センチ、幅一メートル三八センチ、仙台石で造られており、ノミの痕がその味わいをみせています。碑の裏面には「水郷利根保勝会」と記されています。この「水郷利根保勝会」についてですが、昭和二年(一九二七)、東京日日新聞(現毎日新聞)主催による「日本八景」を葉書投書で選定することが行われます。このため当時の佐原町の商工会が中心となり同会が結成されPR活動を展開します。結果は、残念ながら「日本八景」の選に漏れてしまいます。しかし、利根の水郷は、「日本二五勝」の最高点となりました。この水郷利根保勝会の活動の一環として、水郷大橋の新設工事を掲げ、千葉・茨城の地元地域への署名活動・資金集め等も行われました。この会は、佐原に観光協会が設立されるまで活動し、観光PRに努め、その地域の活性化に尽力した会でした。「水郷之美冠天下」の語句を刻んだ碑は、住民主体の活動が見事に実を結んだ記念碑であり、美しく、誇りある郷土を象徴する金字塔と言えるのではないでしょうか。京からも近く、風光明媚な自然の残る水郷が観光地として人気を博すようになります。中でも文人墨客による水郷を紹介した紀行文などにより、なお一層にその美しさが万人に周知されることとなり、さらに水郷観光ブームの盛り上がりに弾みをつけることになったようです。さて、冒頭で紹介しました石碑に刻まれた文字は、水郷の地を何度か訪れていた徳とくとみそほう富蘇峰(正しょうけい敬:一八六三~一九五七)が、昭和八年(一九三三)地元在住の藤本直氏に「水郷之美冠天下」と揮きごう毫したと言われています。この原本は扁額となり現在は香取市立佐原中央図書館のホールに掲額されています。(写真1)それでは、この石碑がいつ建てられたのかといいますと、昭和一一年(一九三六)、初代水郷大橋の完成・開通を記念して、翌昭和一二年六月に建てられました。建設場所は、水郷大橋の北詰(茨城県側横利根閘こうもん門近く)に建てられました。当時は、利根川を挟み佐原、潮来、霞ヶ浦、筑波山等を眺望するその自然、水郷の美しさが感じられる所、もちろん地元稲敷を含めた場所に設置されたのでしょう。△写真1?写真2