ブックタイトル広報つちうら 2014年4月上旬号 No.1120
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広報つちうら 2014年4月上旬号 No.1120
23広報つちうら2014.4.1今から150年前の、元治元(1864)年6月21日朝5つ時(午前8時頃)のことです。真鍋村(現土浦市真鍋)の静かな朝が急変した様子を、土浦町中城(現土浦市中央一丁目)に伝わる「天狗騒動の記録」は生々しく伝えています。田中愿げんぞう蔵組の浪士150人が陣じんがさ笠・陣じんばおり羽織姿で真鍋台へやってきた。浪士は一軒に一人ずつ立ち並び、「炮火」の声を合図に、弓・鉄砲・鑓・抜身を携えて家に進入したのである。「荷物を片付ける者、火を消す者は切殺す」と叫んだので仕方なく家に火をかける者も出た。「大切な物は持ち出せ」というので、金子を運びだそうとすると抜身で追いかけてきて奪われた。少し前の同年3月27日に、藤田小四郎(1842~65)を中心とした115天狗党と土浦―「天てんぐそうどう狗騒動の記録」から水戸藩尊王攘夷派の浪士らで結成された天狗党は、筑波山で挙兵しました。その後およそ半年にわたって周辺の町や村から軍資金を集めるなど損害をもたらし、関東地方の村々は、その鎮圧のために人足の提供も強要されました。当時の人々にとって、天狗党の挙兵は大事件でした。土浦藩の武家屋敷も襲撃されました。浪士は新しんやしき屋敷(常名台現土浦市並木)に入ってきて、関信のぶより順家(砲術指南)から鉄砲を盗もうとした。当主は留守であったが、隣家の河野八兵衛の二男森之助(15才)が「侍さむらないらば玄関より廻れ、不ふらちもの埒者」と追いかけ、内股へ鑓やりを突き刺そうとしたので、浪士は陣笠を捨てて逃げていった。関流砲術の本家でさえも狙われ、武器を奪われそうになるほど、天狗党の勢いは強いものでした。騒動の最中、ひとりの土浦藩士が筑波山に向かいます。五十嵐儀ぎいち一(号愛山1819~74)です。儀一は藤田小四郎と縁がありました。儀一は、土浦藩の藩校郁文館で学んだのち、幕府の学問所昌しょうへいこう平黌に進学しました。昌平黌に入学した土浦藩士はほんの数名しかいません。江戸在学中、儀一は勤王の志士らとも知己を得ましたが、そのひとりが藤田小四郎だったのです。儀一は、藩領における金策と無礼を禁止させるべく、単身天狗党が本拠地とした筑波山に登り話し合いをもとめました。しかし、小四郎からは天狗党へ加わるよう求められ、数日筑波山に留められてしまいます。それでも承諾しなかったため、釈放され土浦に戻りました。天狗党は、関東地方の常陸から下野にかけて広範囲を活動し、後に西上することになりますが、挙兵には明確な理由がありました。将軍徳川家いえもち茂は文久3(1863)年5月10日に外国の脅威を退けようと攘夷の決行を孝明天皇に誓っていましたが、かないませんでした。翌元治元年2月、家茂は開港していた横浜港を鎖とざし、海岸防御を強化すると再び攘夷を誓いました。小四郎らは、攘夷が決行できず幕府の権威が失墜すると危惧し、横浜鎖港を側面から応援するつもりで兵を挙げたのでした。「天狗騒動の記録」とともに、天狗党の足跡を描いた「天狗騒動図」、藤田小四郎の書などを、第35回特別展「幕末動乱―開国から攘夷へ―」で5月6日(火)まで展示しています。市立博物館(?824・2928)問▲天狗騒動の記録▲天狗騒動行動図23広報つちうら2014.4.1