ブックタイトル歴史館だより No.108
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歴史館だより No.108
資料が語る初代茨城県庁今回は,初代茨城県庁について紹介します。茨城県は,明治4年(1871)7月の廃藩置県によって誕生しました。このとき,全国は3府302県となり,現在の茨城県域にあった15の大小藩がそのまま県となりました。その後,県の統廃合が進み,11月13日には新たな茨城県と新治県と印旛県の3県が誕生しました。その日を記念して「茨城県民の日」が制定されました。茨城県の県庁所在地は水戸になり,翌5年1月から弘道館の一角で県の業務がすすめられました。弘道館は水戸藩校として重要な役割を果たしていましたが,明治維新の際の弘道館戦争で多くの建物を焼失し,廃藩後は陸軍省の所管となりました。陸軍省の土地にどうして県庁が建てられたのか。国立公文書館には,その際の経緯を示す文書が遺されています。明治14年の「茨城県庁敷地陸軍省ト交換」には,県当局が,陸軍省の管轄となった弘道館の敷地がむなしく荒廃し士族や平民が遺憾に感じている状況を説明し,ここを県庁敷地とするため他の土地と交換できないかと内務省に伺っています。交換先として提案された場所は,東茨城郡河和田村と堀村の原野開拓地の約10ヘクタールでした。陸軍省は,防御線が未確定なため応じることが難しい事情を説明していますが,現在のところは不用だから交換に応じてもよいと回答しています。交換地は,陸軍歩兵第二連隊や工兵隊が置かれた,現在の茨城大学や堀原運動公園の周辺と思われます。茨城県庁舎(初代)茨城大学(昭和24年)庁舎の建築にあたっては,県当局から内務省に何度か伺書が提出されましたが,財政上の問題からなかなか許可が下りませんでした。当館では,国立公文書館所蔵資料展を,平成25年12月7日から平成26年1月26日の会期で実施しました。展示された「茨城県庁建設の儀再伺」と「付属図面」(国立公文書館蔵)から,弘道館敷地5万坪の一部を割いて,木造一部2階建ての県庁舎が設計されたことがわかります。庁舎は,明治15年5月に完成しました。1