ブックタイトル茨城県近代美術館 美術館だより No.97

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概要

茨城県近代美術館 美術館だより No.97

木村武山による文化財保護―地方の古美術発掘の事蹟MOMAIBARAKI日本画の美術団体として知られる公益財団法人日本美術院と、大正期には「奈良美術院」、戦後は「美術院国宝修理所」と通称し、国宝・重要文化財の彫刻(仏像や神像)の修理を行っている公益財団法人美術院は、共に、岡倉天心が明治31年に創立した「日本美術院」を出発点としている。天心は当初から日本美術院を、絵画の新制作およびその発表の場としての展覧会事業と、全国の寺社が所蔵する仏像や神像の修理事業の二つを活動の中心に据えており、この二つの部門がそれぞれ独立したのは、大正3年、天心が没して1年後のことである。現在では二つの団体として別々に活動しているため、日本美術院の画家たちと文化財保護との関わりはないように思えてしまう。しかし、実際には仏像仏画など文化財の国宝(重要文化財)指定に日本美術院の画家が果たした役割は小さくないのである。本稿では日本美術院の中心画家の一人木村武山が文化財保護、具体的には茨城県という地方の古美術を発掘発見し、国宝指定などに結実させていった役割について述べてみたい。茨城県内の仏像が古社寺保存法に基づき国宝、現在の重要文化財に初めて指定されたのは明治44年のことで、城里町藥師寺薬師三尊像、桜川市楽法寺観音菩薩立像などが指定されている。実はこれらの指定に武山は大きく関わっているのである。武山と下村観山が五浦にいた頃、県内の古美術を探訪しようということになり、古刹として知られた藥師寺を訪問している。この時、薬師像を拝観し「全態に漲る雄渾なる気宇、刻成に見る豪健の刀法、正に弘仁の初期の傑作」として文部省の中川忠順に紹介したことで国宝指定に至ったのである。(注1)また、楽法寺像も同様に武山と観山が発見、写真を天心に送っており、天心からは写真の礼とともに「御談の通り藤原時代の作品など地方には珍しき発見と存じ候。一両日中に内務省に提出し其の内正式の調査これ有り候様」としたためられた書簡が送られている。(注2)このように天心はじめ東京で国宝指定に従事していた文部省関係者が地方の仏像の情報を手に入れるには、その地方の寺院を踏査できる環境にあった人物の活動が重要であったと考えることができる。大正3年岩谷寺の薬師如来坐像と薬師如来立像が、大正9年には弥勒教会(廃寺のため地区管理)の弥勒仏立像および楞厳寺の千手観音菩薩立像が国宝に指定されているが、武山の生家は笠間にあることから、これらの指定に武山による紹介があったものと推察できる。特に楞厳寺は、武山の生家から直線距離にして3キロ弱と近くにあることからも武山がその存在を知らなかったとは考えにくい。このほかにも武山が茨城県内の古美術調査を行っている事例が2例ほど知られている。昭和10年、武山が茨城会館開館記念の展覧会準備のため水戸を訪れ笠間に足を伸ばすことになった際、途中の中妻村(現在の水戸市田島)の和光院に立ち寄り、「血不動」と呼ばれる秘仏の不動明王画像を調査している。(注3)この時、見ると目がつぶれるから開くことはできないという住職に対して、拝観するのは「信仰の上からおがむのではなく、芸術の研究という極めて清浄な念願から拝見したいのですから、罰は当らないと思います」と言って説得、「国宝になっている京都山科の醍醐寺三宝院秘蔵の信海阿闍梨筆(弘安5年秋の作)不動明王の下図と同一筆法の実に稀れな傑作」と評し、「このような名画を草深い片田舎に埋めて置くのは惜しい、是非東京へ来て識者の鑑定を求められたら如何か」と東京に持参し、文部省の国宝保存会職員だった丸尾彰三郎らに見てもらい高評価を得ている。その後、実際に国宝の指定申請を行なったそうだが、残念ながら指定にいたらず、現在は水戸市の指定文化財となっている。同じく昭和10年、生家の敷地内に建立した大日堂の落慶法要を済ませた武山は、旧七会村(現在城里町)の徳蔵寺を訪れている。(注4)はじめに十一面観音立像を堂内で拝観、その出来栄えに明るいところに移して詳細に見た武山は、「肉づきの柔らかく、ゆったりとしている感じは、藤原初期の名作そのままであるが、衣紋の線の強さや、玉眼のある点などから思推するに、鎌倉初期の作であろう」と感心している。さらに弘法大師像を拝観した武山は、「生けるが如く、自分は全く驚嘆した。(中略)実に稀に見る名作だ」と回想している。弘法大師像は戦後茨城県指定文化財となっているが、武山の言葉を得た住職は相当喜んだらしく、住職の寺宝への意識を変えたことであろう。武山の調査がこれらの仏像の運命を多少なりとも左右したのである。こうした事例は、武山が古美術品の模写を通して造詣を深めていったことや日頃から優れた美術品の発見に心を砕いていたことを物語るのみならず、天心の文化財保護の精神が弟子の日本画家たちにも受け継がれていたことの現れととらえることができる。[茨城県天心記念五浦美術館主任学芸員中田智則]注1:齋藤隆三「石塚の薬師と小松寺の如意輪」『藝苑今昔』昭和23年創元社注2:田口信行「雨引山の観音」『画説25号』昭和14年1月注3:木村武山「和光院の不動明王」『塔影11巻7号』昭和10年7月注4:木村武山「仏像・絵画の発見に就て」『塔影11巻12号』昭和10年12月なお、引用文の旧漢字・旧仮名づかいは適宜改めた。5